古墳時代から
江戸時代まで

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旧上磯町  【北 斗 市】  旧大野町

北海道

全国

1804

文化

1

815日 伺之通たるべしの御下知を得る。山田鯉兵衛、村上次郎右衛門、石坂武兵衛、代島章平を掛りとし、其他箱館御用達、御用共受持にて、諸国の農民を雇い入れて開発した。その年1年間で新田140町歩、畑20町歩を開く。

鹿島大明神(鹿島神社)建立

4月 幕命により、蝦夷地に三官寺を建立

 

 

 

 

文化年間に野崎の地に箱館称名寺所轄の「地蔵庵」が創立された。

 

亀田村に万年橋を架す。

 

1805

 

2

越後の農民雇用して、米600俵、大豆500余俵収穫す。前年より開始された幕府の開拓による成果。<水田>大野村字庚申塚(後本郷という。)90町歩、大野村字文月50町歩。<畑>庚申塚35反歩、文月15反歩、濁川村15町歩又自費で開墾出願の者には各々土地を割渡して経営せしめたり。

開田により水不足となり大野川をせき止めて墾田地に導入したのが大堰用水の始まり。

箱館に消防人足が組織される。

 

 

 

 

七重浜に常盤木橋を架す。

市渡村字八軒家に千葉道場(大郷寺)建立

 

 

1806

 

3

戸切地の民、運右衛門の祖母、歳106容貌衰えず。官養老の典を挙げ、銭10貫文、終身棒2人口を賜う。其の妹2人、1人は89歳、もう1人は74

一本木稲荷神社建立

104日 弁天町より出火、350戸焼く。

幕府、外国船に薪水を給与することを命ず。

 

 

 

 

 

この年から翌年にかけ、ロシア人千島、樺太、利尻等で暴行略奪をほしいままにする。

 

1807

文化

4

有川村家数100軒程、戸切地村家数70軒程名主久七、高田屋嘉兵衛の新開場あり。盛岡在栗屋川百姓源兵衛新開場あり。

11月 開田に功労があった羽太奉行がロシア政策に対する責任から職を免ぜられ、ついで翌54月、戸川奉行も職を免ぜられた。

322日 幕府、松前藩より西蝦夷地をも上知せしめ全島を直轄、松前藩を奥州梁川へ転封して9,000石を賜う。

 

 

 

 

野崎、中の郷辺の田畑は多く、牛の放牧や炭焼も行われている。627日には七重浜で、秋田勢の備立掛引を見た。(『松前紀行』堀田摂津守正敦)

 

423日 ロシア軍艦2艘、エトロフ島へ入港内保を襲撃。529日、露船、礼文島沖で松前の商船宜幸丸を襲撃。62日、露船ノサップ沖で松前藩の棹祥丸を襲い、また利尻島で幕吏乗船の万春丸を襲い兵器、物品を掠奪、船庫を焼く。

 

 

 

 

近藤重蔵の蝦夷地要害に関する意見「函館在野崎の地に築城して福山の人民を移し、箱館は専ら貨物集散の港とすべし」

 

 

 

1808

 

5

 

文化2年以降の奉行所直営の稲作が全面的に中止となる。

4月 箱館奉行調役下役元締松田伝十郎、間宮林蔵ら、ロシアとの国境検分のため樺太各地を探検す。

 

 

 

 

 

 

8月 七重村の卯之助、箱館山に文化7年までに植栽栽せる杉2万本

 

1809

文化

6

官営以外の箱館開発場田畑反別並に家数、中野郷田18町歩畑5町歩家数21戸。文月之内稲生田25町歩畑2町歩家数50

 

松前、津軽の両海岸に烽火台を設備す。

 

 

 

 

記録によれば矢不来台場に700目唐銅箇一挺外木砲3挺あり。南部藩之を戊れり。

 

間宮林蔵、満州仮府にいたる。樺太が島であることを発見(間宮海峡と名付けられる。)

 

 

 

 

木古内より石崎まで(25か村)戸数1206、戸人口5547人 新開の部(10か所)戸数106戸、人口393人 6ヶ場所(アイヌ除く)戸数408戸、人口1,716人 合計戸数1,720戸、人口7,656

 

 

 

1810

 

7

51日 高龍寺17世禅海「観音庵」(後の広徳寺)を創建す。

 

高田屋嘉兵衛、箱館の支店を本店とし、大坂、兵庫に支店を置き大小船10余隻を所有して各地に通商する。箱館には倉庫10数棟あったという。この年嘉兵衛、エトロフ場所請負を命ぜらる。

 

 

 

 

曹洞宗宝樹庵、茂辺地に創建す。

 

 

 

 

 

 

文化年間(18041817)市在人家接近に熊狼出現するときは、期を定め、証書を取り鉄砲を貸付する規定を作ったが、文政5年(1822)松前氏復領を同時にこの方も有名無実になった。

 

 

 

1811

文化

8

文化89年度、高田屋金兵衛の傭夫、高田佐六なる者、初めて中野通に於て尋常の農具を以て水田2反歩許を新開し内地より種物を取寄せ粳米を播種せしに充実せず。

 

64日 松前奉行支配調役奈佐政長、国後会所にディアナ号艦長ゴローニンを招致してこれを捕らえ、陸路箱館に護送、陸路福山に護送して拘禁す。

 

 

 

 

井上源兵衛など中野郷を開墾する。(南部盛岡の農、一段の入植者あり。)

 

97日 幕府東蝦夷地の直捌を廃止。文化9年請負入札を行い、翌年より請負経営となる。

 

 

 

 

(矢不来台場)その山は高すぎ、湾の水路が広すぎ、その目的には適さない。大砲34門の小さな銅砲と18ポンドの鋳鉄砲1門ある。(『日本幽囚記』ゴローニン)

 

 

 

1812

 

9

有川村の旅人宿廃止(同時に旅人鑑札の割印は箱館の町会所及び新たに沖ノ口役所でも行うことになる。)

文月の庚申塚(奉鎮祭庚申太祖猿彦太神)建立

322日 ゴローニンら6人福山の牢を脱出、翌日木の子村で捕らえらる。23か月幽閉。

 

 

 

 

 

 

84日 ロシア軍艦洋上で高田屋嘉兵衛の観世丸を襲い嘉兵衛を捕えてカムチャツカへ連行す。

 

 

 

 

 

 

84日 ディアナ号国後入港の際、中川五郎治(シベリア拘留中種痘法を学ぶ)ら7人の漂流民を日本に送還した。馬場佐十郎、ゴローニンらについてロシア語を学び、のちわが国最初の露語辞典「俄等斯語小成」11巻を著す。

 

1813

文化

10

春、箱館に於いて鰊の大漁あり、稀有との事と為す。漁網は旧により有川村、戸切地村に於いて冬鯡に引網を用い、その他一切大網を許さず、皆差網を以てせしめたり。

大野 戸数85、人口329。市渡 戸数63、人口239。本郷 戸数20、人口63。文月 戸数28、人口112。千代田 戸数11、人口45。一本木 戸数6、人口21

2月 江差大火、250軒焼失

 

 

 

 

817日 幕吏及津軽藩士10数名ゴローニン等を護して福山を発し、箱館に着し旅館に居らしむ、南部、津軽の2藩に命じ箱館及び其付近を警固せしむ。津軽藩は物頭牧野徳一同成田求馬以下150余人にて当別及び矢不来の台場を守り、有川、七重浜、亀田等は箱館府の在住同心之を守れり。

 

526日 ディアナ号国後に来り、副将リコルド、高田屋嘉兵衛を介してゴローニンの釈放を交渉す。917日 ディアナ号箱館入港、幕府の代表と交渉。926日 幕府、ゴローニン一行を釈放す。

 

 

 

 

秋、松窓乙二、箱館から泉沢に船で渡る。鯨2頭を見る。

 

 

 

1814

 

11

 

 

10月 南部、津軽両藩に命じ300人を残して他藩の蝦夷地戊兵を罷む。

青森大火、500戸焼失

1815

 

12

 

 

福山、箱館両地を守る一部を残し、東西蝦夷地に駐在した南部、津軽2藩の守備兵の撤退終わる。

 

1816

文化

13

 

 

高田屋嘉兵衛他3人、共同して根室場所を請負う。

幕府、諸国人調査を実施す。

1817

 

14

 

 

石狩地方、天然痘大流行、アイヌ死者多数。そのため石狩場所運上半減すという。

 

1818

 

15

 

 

三港の戸数、江差2,000戸、福山3,000戸、箱館1,000

 

1819

文政

2

 

 

高田屋嘉兵衛、十勝幌泉場所請負人となる。

7月 幕府、草文小判1分判を鋳造す。

1820

 

3

 

本郷百姓林蔵、嘉七ら市渡で鉛を採掘する。

4月 箱館奉行所旅人鑑札書式を改正

幕府、草文丁銀、小玉銀鋳造す。

1821

 

4

松前蝦夷地復領により、南部藩成る所の矢不来台場を松前藩兵に引継ぐ。

 

127日 幕府東西蝦夷地を松前藩に還付、箱館福山守備の南部、津軽藩それぞれ撤退

 

1822

 

5

田地役1反につき180文(ただし、新開発より収む。)、畑地役10坪につき3

 

116日 有珠、虻田地震、119日、有珠岳大爆発。21日、有珠岳大爆発、溶岩虻田に流失、虻田会所以下土人部落全滅す。

日本近海に出没するアメリカの捕鯨船30艘以上に及ぶ。

 

 

 

戸切地支郷中野郷田313畝、三ツ石畑43166分、当別畑1129歩、濁川畑8町、戸切地畑28310歩、有川畑1113歩、中野郷1521歩、文月畑66417歩、大野畑139767

 

5月 幕府、松前奉行を廃す。

 

 

 

 

漁業に関する役銭鯡役(石崎より木古内まで)生鰊1丸(但し1200匹)に付銭12

 

 

 

 

 

 

昆布役(有川より木古内まで)図合船11300文、三半船1900文、持扶船1600

 

 

 

1823

文政

6

4月 松前鷹待之用として松本平八郎、品川運治、高井弥栄、秋山昌八の4名(三ツ谷村)字大賀沼と申所へ人夫数多引連れ来て鷹を取る。夫より毎年来て鷹を取りて旧幕府へ呈す。仍て此場所を称して近年まで松前家鷹待場と唱ふ。(『上磯・谷吉・富川・中野・清川五ヶ村沿革調』)

松前藩主章広が文月稲荷神社の再建を命ずる。同社には、この年に揮毫した章広直筆の社号額や再建の由来を記した扁額などが保存されている(大野町指定文化財)。

79日 奥州の俳人松窓乙二没(69歳)

オランダの医師シーボルト来日

1824

 

7

 

疱瘡流行。中川五郎治、大野村の牛を用いて痘苗をつくり、種痘を施す。わが国最初

 

幕府、南鐐2朱銀を改鋳(文政2朱銀)、文政1朱銀を鋳造

1825

 

8

 

 

 

2月 幕府異国船打払令を布達

1826

 

9

 

 

蠣崎広年(波響)没(63歳)

 

1827

 

10

 

 

4月 高田屋嘉兵衛没(59歳。淡路国で病没)

 

1828

 

11

薬師堂創立、浄土宗同社地蔵庵持僧順教開基

 

5月 箱館市中の坪割銭(地租)を免除

幕府の調査による日本の人口2,720万人

1829

 

12

 

 

616日、近藤重蔵没(59歳)。719日、菅江真澄没(76歳)

9月 シーボルト、日本国から追放

 

 

 

 

 

この年あたりから、北前船の蝦夷地往来が頻繁となる。

トリカブトの他国売買禁止

1830

文政

13

 

 

221日 嶋と唱える苗字、屋号、名前の使用を禁止(『林家文書』)

 

 

 

 

 

 

8月 徳川斉昭、北防を厳にして、蝦夷地開拓を建言する。

 

1830

天保

1

 

 

1211日 章広、身分の1万石以上の取扱への昇格と陣屋を城と呼ぶことの許可を老中水野出羽守に内願

 

1831

 

2

 

 

10月 幕府松前家の家格を1万石とし辺政を収めしむ。藩主章広幕府に1万両を献金す。

4月 幕府、百姓町人の葬式、石碑を制限し院号居士号の戒名禁止令を出す。

 

 

 

 

 

幕府、高田屋金兵衛を江戸に召還して糺問すロシアとの密貿易嫌疑による。

 

 

 

 

 

 

福山大火、194戸焼失

 

1832

 

3

秋、庚申塚(和泉屋。妙隆寺境内)

 

626日 福山で大火、900戸焼失

11月 幕府天保2朱金鋳造す。

 

 

 

茂辺地村で米1俵、2500文。翌年には12貫文となった。

 

816日 他国への奉公人は必ず届出、5か年限り帰国すべき事を令す。(『松前町年寄詰所日記幷番日記』)

 

1833

天保

4

3月 熊谷宇兵衛(天保元年生まれ)は父宇兵衛(初代)と共に福山(松前)から移住した。後、工事の失敗を重ねたが、慶応元年(1865)には戸切地川から宗山川に至る灌漑(用水路。宇兵掘と呼ぶ。)に成功した。

 

223日 高田屋金兵衛の判決下り、幟合せの罪をもって、所有船12隻没収、兵庫、箱館、大坂の各店お構え江戸10里四方追放に処せらる。

 

 

 

 

茂辺地村、天保45年頃より南部、津軽の人民当村へ渡航し、当村を通行するもの幾百人なるを知らず、是皆該当地方の飢民にして松前の天富を伝聞き生命を保たんが為に来るものなりという。

 

5月、福山大火、祭礼を翌年に延期。627日、江差大火、300棟焼失。7月、福山大火、沖ノ口役所類焼。7月、江差大火、270戸焼失

 

 

 

 

但馬国出石郡平田村専福寺僧入眞坊大蟲に本願寺門跡広如上人命じて、全国から農民20戸を募集し、濁川に入植させ開墾に従事せしめたが、不幸大蟲は途中病に斃れたので、入植した農民も帰国するのが多く、その目的を達成できなかった。

 

1026日 昼八ツ(午後3時)福山強震あり約半時間後海潮満つること4尺、尋(6尺)で引退し、幾度となく繰返えし、翌昼七ツ時、箱館に於いても湊内凡20町許の間、潮退き児童等は出でて魚介を捕えしが後潮溢れ来りて街路に上りたり。(『伊達家文書』)

 

1834

 

5

61日 異国船が矢来内沖に現れたとの報、福山に到来。同船は2日白神岬に沖をめぐり、福山沖に現れたので松前藩では3番手まで繰出し諸々の台場より発砲

 

25日 松前藩、城下在々とも小売米払底をつき、特別備米のうち加賀米1,000俵を割き御用達6人を通じて1180文にて小売する件を通達

江戸に大火あり。諸国凶作。

 

 

 

 

 

章広没し、良広第15代松前藩主となる。

 

 

 

 

 

 

箱館の徳田和兵衛、近在及び六か場所の昆布売買を開始す。

 

 

 

 

 

 

箱館の蛭子長兵衛、常野与兵衛とともに西国33番の札所の士を求め、また33体の観音像を求めてこれを箱館山に安置す。

 

 

 

 

 

 

有珠岳噴火、虻田部落全滅す。

 

1835

天保

6

 

 

76日 江差大火

9月 幕府、天保通宝(百文銭)を鋳造す。

 

 

 

 

 

 

幕府、諸国諸藩に図絵図の作成を命ず。

1836

 

7

 

翌年にかけ東北地方は一層の凶作で米の移入が途絶えたので、大野ではわらびを作り、また山菜・海藻・魚介類によって生命をつないだ。

9月 最上徳内没(83歳)

 

 

 

 

 

 

箱館沖ノ口役所の調査によると、この年の米の輸入高65,999俵、酒輸入高10,185樽(2斗入)とあり、この他抜荷が見込まれるので実際の輸入高はこれよりはるかに多いという。この年も凶作で飢饉となり、津軽南部から蝦夷地へ移住する者多し。奥州では餓死する者10万人という。

 

1837

天保

8

 

 

箱館奉行、東6か場所に令して凶慌備蓄用食糧として「オシメ」昆布を作らしむ。

23日 大坂奉行所与力大塩平八郎、乱を起こす。(この乱で大阪市中の大半が焼失し、大塩は自害)

1838

 

9

 

 

3月 江戸城西の丸火災につき松前藩5,000両を献金す。

4月 天保の改革始まる。

1839

 

10

 

 

526日 福山大火、1,000余戸消失

奥州の飢饉はなはだしく、死者多数という。住民ワラビを常食とする。

 

 

 

 

 

824日 藩主良広没し、昌広第16代松前藩主となる。

 

1840

 

11

南木伊兵衛(戸切地村)名主の時に至りて、戸数70戸、人口283

 

吉岡に沖ノ口番所を設ける。

江戸藩邸に明倫館を設ける。

 

 

 

木村兵次郎、木村武右衛門初めて雄3羽雌5羽の鶏を陸奥国津軽郡青森より購求し追年生産する。

 

松前藩、追鰊の者の中渡船として大中遣船の永久使用を許可する。

 

1841

天保

12

戸切地の薪製造が特産物としてあった。

 

5月 幕府老中水野忠邦、天保の改革を号令し松前藩もこれにならい倹約令を出す。

幕府は株仲間の解散を令す。

 

 

 

 

 

箱館付村々32か村戸数1,563、人口7538 6か場所戸数631、人口2,682 *6か場所とはヲヤス、トイ、シリキナイ、ノタヲイ、(ヲサッペ、ウスジリ、シカベ)、(サワラ、ワシノキ)

 

1842

 

13

濁川村の初めて同村字後谷地に於て水田2反歩を墾成し稗を播種し其収穫を185升を得る。

 

江差類焼649軒に及ぶ。 福山大火、215消失す。

7月 幕府、異国船打払い令を廃し薪水給与令を復活す。

 

 

 

井上源兵衛、秋山與次七衛門なるもの鍬の農機を以て初めて川原通りに水田3反歩を開き稗を植付其収穫籾稗にて48斗を得たり。

 

 

菱垣廻船積10問屋を解散。各種株仲間、問屋組合を禁止する。

1843

天保

14

濁川村の木村武右衛門なるもの同村後谷地に水田2反歩を開墾する。

 

3月 国後、根室、厚岸地方に大地震津波発生し46人が溺死す。

 

 

 

 

 

 

56日 昌広弊風改革、細部にわたり倹約令出す。松前藩、市住の風俗を乱すという理由で盆踊を禁止

 

1844

弘化

1

松前藩、台場を福山に6、箱館に4、江差、白神岬、吉岡村、矢不来、汐首岬に各1か所配置、外国船しきりに本堂へ接近す。

 

226日 間宮林蔵没(65歳)

 

 

 

 

松前藩、矢不来台場に鉄砲1貫目、500目、300目、150目を各1挺ずつ配備

 

 

 

1845

 

2

 

 

2月 大雪で有珠虻田の馬牧場の養馬900頭が斃死す。

愛国婦人会の創設者、奥村五百子唐津に生まる。

 

 

 

 

 

9月 恵山爆発、椴法華方面に泥流噴出し230軒埋没して死傷者を出す。(『蝦夷日誌』) 『江差町史年表』に弘化391日とあり。

 

1846

弘化

3

濁川村の木村武右衛門、種物を陸奥国津軽郡より取寄せ初めて稲を耕作し其収穫籾にて7石、玄米にて322升を得たり。

 

 

 

 

 

 

有川村家100軒、小商23軒、旅籠1軒。砂地に掘立小屋、大橋長57間、当嶋第1の大橋(修繕費は松前藩賄。300400石船入港、有川村中には5600石船を所有する者もあり。亀田村と有川村の境の常盤木橋は文化2年(1805)松前奉行羽太正養がかけた。

 

 

 

 

 

 

矢不来村、茂辺地村の出郷。「境川」あり富川村との境

 

 

 

 

 

 

戸切地村家100軒、小商34軒、旅籠1軒。茂辺地村人家80軒程、小商23軒、茂辺地川幅10余間、冬と秋橋で渡り、夏は船で渡る。料金110文、漁師の暇な時。他は歩いて渡。

 

 

 

1847

 

4

310日 落合第蔵(文政10年(182731日生)、20歳、近江(滋賀県)浅井郡落合村から父の太右衛門を訪ねて函館に渡る。後に、行商を営みながら、上磯に移住し、商業のかたわら、灌漑を起こし農地開墾に励む。

 

321日、尻内村へ異国船現れ上陸。325日に白神村沖、43日汐首岬に出現。44日、異国船福山沖出現、領内騒然。

 

 

弘化

 

能登珠州郡飯塚村の人、金子利吉(文政6925日生)なる者、上磯郡茂辺地村に製瓦の業を創めしも、土質適せずして良品を得るに至らざりき(是れ蓋し本堂に於ける製瓦の始まりなるべし)、安政4年(1857)亀田に製造所を移した。

 

 

 

1844-1848

弘化年間

1-5

金子利吉、茂辺地で初めて瓦を焼く。(一に弘化3年亀田で焼く。)

 

画工平沢屛山、箱館に来て絵馬を描きこれを船夫らに売って業とす。後、杉浦嘉七の知遇を受け、画業に専念す。

 

1848

嘉永

1

落合第蔵、上磯(戸切地)に移住し商業と開墾に当たる。

 

57日 米国捕鯨船ラコダ号乗組員15名、船内で紛争あり脱出して上ノ国付小砂子村に上陸食糧を乞う。拒絶されて江良町にて救助置場に拘留す。利尻にも漂着、柏屋三宝丸にて大松前に送る。

 

 

 

 

蠣崎三弥、御用問詰被仰付

 

箱館の佐々木平右衛門、鍛冶町に私塾藤村堂を開く。

 

1849

 

2

濁川村米を耕作する。戸切地村2町余の田地を得、之に播種して玄米1反歩より7斗強の収穫あり。

法亀庵(法亀寺)建立

69日 松前昌広退隠を願出し許され、叔父崇広第17代松前藩主となる。

 

 

 

 

三ツ谷に稲荷社建立

 

7月 幕府、崇広を城主に列し、新城の築城を許可す。1215日、新城築城につき領内町人、百姓分限に応じ献金を令す。献金のもの徒士、足軽に取立てる旨令達す。

 

 

 

 

栄蔵、当別に私塾を開く。(『日本教育史資料』)

 

下国東七郎、藤原主馬を江戸に派遣、佐久間象山塾に学ばせる。

 

1850

 

3

1月 種田徳左衛門、松前城修築に300両献上し賞状を受ける。

高田万次郎、父松五郎の父子、玄米24石(60俵)を収穫。大野で米がとれたという評判は、箱館や近郊の村に伝わり、その後の稲作ブームのきっかけとなった。

3月 兵学者市川一学、福山城の新築設計に当たる。623日、松前藩に、高盛・銭亀沢・七重浜に御台場を新規に構築すべきと建白書を提出した。

 

 

 

 

3月 種田徳左衛門、白餡5,000斤献上し、永々古組徒士格、7人扶持に列せられる。4月、米500俵を5か年間に上納することにし、永々御先手組格・10人扶持に列せられる。

千代田の庚申塔建立

異国船、福山城下沖合に来航。江差、オクシリ沖合に来航。

 

1851

嘉永

4

2月 有川村之吉右衛門鮭取一件ニ付上書訴箱江入御調之上箱館江御差廻シニー(『木村源吾文書』)

高田吉松が文月村に杉15,000本を植林した。

315日 代島元徳、弁天岬、山背泊、押付の箱館3砲台を修築す。

 

 

 

 

8月 阿弥陀庵(谷好寺の前身)留守居道光代に再建す。

 

7月 松前藩、入米不足につき役所は勿論、扶持人並びに市在に至るまで朝、昼、夕食とも糧を交ぜた粥を食し、海草、山草、魚等を貯えおくべき旨

 

 

 

 

松前家賞状、箱館付有川村古組徒士格、種田徳左衛門

 

 

 

1852

 

5

10月 種田金十郎、戸切地御陣屋内前へ在住長屋御取立により、賞せられる。

 

1121日 銭屋五兵衛獄死(80歳)

 

1853

 

6

919日 松前藩、尾見雄三、平田男也、蠣崎周八を目付格とする。

 

315日 有珠岳噴火(大有珠岳出現す)

63日 アメリカ東方艦隊司令長官ペリー軍艦4艘を率いて浦賀に来航す。

 

 

 

有川130戸、戸切地96戸、濁川36戸、文月29

 

317日 江差大火、1,000戸焼失

824日 幕府、品川沖の台場築造に着手する。(安政元年7月竣工)

 

 

 

有川大神宮御神輿の銘嘉永六年丑桃月大坂心斎橋通本町鎌田常右衛門之調神輿は六角形である。昭和39年、上磯町有形文化財指定

 

9月 松前藩、他国より逗留の者はたとえ医師であっても帰国すべき旨達す。

915日 幕府大船建造の制限を解除す。

1854

嘉永

7

45日 種田徳左衛門より願出。有川、戸切地居合490人をソ山に避難させ、米200俵差出旨願上候

6月 市渡大悲庵の庵主道仙と木古内の旅籠屋の主人麓長吉、江差山道の開削。資金難と人手不足から工事中途で挫折。

415日 ペリーの率いる米国軍艦3隻箱館入港。21日にはペリーが2艦を率いて入港。港内を測量し55日退去

33日 日米和親条約調印。823日、日英和親条約を長崎で調印。92日、オランダと和親条約調印。

 

 

 

53日 有川村に網引に罷出候

碑面に「嘉永七寅年八月吉日」と刻まれた庚申塚(庚申太祖猿田彦大神)が市渡にある。

426日 ペリー、松前藩応接掛に松前の訪問・艦員の上陸・物品の購入・家屋の賃貸等を要請。また、家老松前勘解由と会し、遊歩区の協定を要求。勘解由、幕府指定未達のゆえをもって拒絶

79日 幕府日章旗をもって日本国の総船印とすることを命ず。

 

 

 

59日 有川・茂辺地へ御詰御人数箱館へ引上げる。

 

630日 幕府再び箱館奉行を設置

吉田松陰、渡米を試み捕えられる。

 

 

 

6月 茂辺地村に茂辺地駅を設置(駅は陸路往還の人馬継立に備えた。)、戸切地村に戸切地駅、三ツ谷村に三ツ谷駅、富川村に富川駅、当別村に当別駅を設置

 

9月 堀利煕、村垣範正、老中へ蝦夷地検分について上申し、蝦夷地を幕府直轄地として新田開墾に着手すべしと主張

 

 

 

 

箱館は町毎に木戸を設け浜手には板囲を施し社寺は貴重品を蔵匿し、寺鐘は之を鳴さず。婦女、小兒の大野村其他各地に赴き隠るるもの少なからず。亦、有川、戸切地、三ツ石、富川の諸村は婦女小兒を悉く山手に避けしめ、其混雑尋常ならず。

 

ペリー一行入港の節、松前勘解由らを写真撮影する。

 

 

 

 

上磯八幡宮に掲額された。推雨亭(平田草据)の撰、催主中村氏

 

 

 

 

 

 

種田徳左衛門、亜墨利加船入港時に有川・戸切地両村の取締役としての功績に対して松前家より賞せられる。

 

 

 

 

 

 

種田金十郎、亜墨利加船碇泊中の見廻の功績に対して松前家より賞せられる。

 

 

 

1854

安政

1

123日 下国崇教を築城総奉行に任命

 

 

1221日 日露和親条約を下田で調印

 

 

 

戸数110戸、人口436人…有川村

 

 

諸国寺院の梵鐘を鋳て鉤砲をつくるべしとの勅下る。

 

 

 

729日 箱館奉行、村垣範正、上磯に到来し、矢不来で台場を点検する。

 

 

 

 

 

 

12月 箱館奉行の竹内保範と堀利煕は「函館表御台場其外見込之趣大意取調奉伺候書付」を老中に提出し、箱館近郊の警備体制を提示した。

 

 

 

1855

 

2

222日 幕府、松前藩に東部木古内村以北・西部乙部村以北の地を上知させ、箱館奉行の管轄とす。

後幕領時代初頭のこの年の稲作は、大野開びゃく以来の豊作であった。

222日 幕府、東部木古内以東、西部乙部村以北の地を上知せしむ。

 

 

 

 

327日 松前藩に、七重浜より木古内までを守り、元陣屋を有川村に設けるよう指示する。

高田吉松の長男高田鉄三、杉5,000本植樹。

2月 尻岸内冷水川入口に箱館奉行煉瓦製造所の建設着手する。

 

 

 

 

414日 箱館表御警衛場所之義ハ七重浜迄ヨリ木古内村迄持場積ニ候事。−有川村元陣屋取建人数差出候様可被致候…箱館奉行堀利煕より松前藩への指示…

 

31日 箱館港を開港

 

 

 

 

4月 松前藩戸切地に陣屋構築10月完成

 

45日 庵原菡斉箱館近郊亀ノ尾に農作物を試作す。

 

 

 

 

61日 清川村字野崎、無格社雷公神社合祭「倉稲魂命」松前陣屋守護神として勧請

 

722日 箱館奉行、蝦夷地に牧場を設けて外人の牛肉請求に応じるべきことを幕府に建議する。

 

 

 

 

68日 (陣屋築造)工藤長栄(箱館駐在)より「向陽」申請。610日、箱館奉行の許可を得る。11日、幕吏新藤鉛蔵、力石勝之助実地検査。1020日、藤倉保民、尾見雄三検視(竣工による)。1129日、吉井吉裕士卆100余員ヲ率いて警戍につく。

 

 

 

 

 

 

7月 松前藩は、矢不来台場に、松前常憲、辻村清右衛門他7名を配備した。

 

 

 

 

 

 

7月 村垣範正は「当別勤番所アリ、近傍ノ漁業椎茸等の積出、函館沖ノ口を経さるものを改ル」と記している。※当別勤番所の主なる業務 (1)許可認「切手」の発行 (2)「落船」の処理 (3)函館沖ノ口業務の代行

 

 

 

 

 

 

奉行は養蚕に熟練した同心立勝三郎や足軽小頭鈴木三右衛門を養蚕世話方として村方を巡回指導させたので、七重の藤山郷、上磯の濁川、中野郷、大野文月や一本木で是れを飼育する者が、出来。同年中前後40人の八王子千人同心の子弟を七重藤山の両所に入れて蚕職の業を伝授した。

 

 

 

 

 

 

三ツ石村家数145軒。当別村家数3040軒陣屋大砲あり。茂辺地村家数80許。瓦刂帀1軒あり。下国図書の城跡あり。天神の社あり。毎年716日祭り。2丁先に台場あり。矢不来村家数1415軒。ガケクズレ箇所あり危なき道なり。富川村家数6070軒。稲作をなさず。三ツ谷村家数6070軒。戸切地村有川村家数200軒余。大橋あり。二ツ屋村1516軒浜の方に茶屋3軒あり。浜に坑あり。

 

 

 

 

 

 

馬鈴薯の切干は木古内・茂辺地・七重外数か所に製造所を設け、房州勝山の民、新兵衛に資本金を貸与して、1俵に付180匁の工賃を以て製造せしめたり。亀田村の民、栄治が出願し、資本金の貸与を受け、亀田・上磯両村の水車を用い製造せしめたり。

 

 

 

 

 

 

覚高金五百両之内、一金両右者当卯年分献金上納ニ付請取申候以上卯1127日松前仮陣屋、一金百両右者当辰年分上納ニ付請取申候以上辰1227日松前出張所…(『在川御陣屋人夫料金上納帳杉浦嘉七』)

 

 

 

 

 

 

富川村植林の杉1070本あり

 

 

 

 

 

 

「函館ヨリ七重ニ浜ヲ経、有川・大野ニ村ノ通路及ヒ桔梗野ヲ経テ七重ニ至ル路傍ニ列植」(『上磯亀田各村沿革史』)

 

 

 

1856

安政

3

513日 保徳、利煕は箱館の防御に関し矢不来、押付、山背泊、弁天岬、立岬の5砲台の状況並に築島に砲台を築き、続きて矢不来、山背泊、立岬の3砲台を改築し大砲は蝦夷地沿岸の砂鉄を以て製造

稲作農家急増し、引き続き気候も順調、前年を上回る収穫を見る。この年から仮に定められた田祖は蝦夷地でとれた最初の祖米なので、箱館奉行は翌年、進献するため江戸へ廻送。触書が出されるなどの話題を呼んだ。

322日 武田斐三郎尻岸内古武井に仮溶鉱炉及び砂鉄吹立所工事着手。8月共に完成

7月 下岡蓮杖、下田でオランダ人ヒュースケンから写真術を学ぶ。

 

 

 

75日 濁川村新太郎罷越青物持参7日濁川村ヨリ七夕之屋台持参村若者共江御門内に而御目録被下之(『木村源吾文書』)

箱館奉行、市渡鉱山の鉛採掘再開

6月 続豊治西洋型端艇製造に成功す。

 

 

 

 

823日 矢不来江御備頭目付見分に御出有之、28日、御足軽五人同道矢不来御台場土手直

6か村の戸数308、人口1,854人。牛の頭数、市渡73、大野22、本郷32

719日、箱館で地震3回、20日に2回、23日に6回あり81日まで続く。

 

 

 

 

101日 御陣屋勤番之内発句今晩点開有之

 

725日 幕府、箱館に限り、外国船の要求あれば牛肉を供給することを命ず。

 

 

 

 

11月 種田金十郎殿御城下引越被仰付是迄下代相勤居(『木村源吾文書』)

 

826日 駒ヶ岳噴火。鹿部村壊滅的被害

 

 

 

 

箱館の者4人(中ノ郷源兵衛、千代田才兵衛、一本木新兵衛、庚申堂儀兵衛)官に請うて今は車馬も通する道となりし也

 

1110日 弁天岬砲台築造着手及び亀田役所の土塁工事を河津祐邦、武田斐三郎に命ず。

 

 

 

 

水田開墾、546畝に及ぶ。−中野村−

 

11月 箱館奉行所谷地頭に銀座を設置す。

 

 

 

 

湯の川赤松造林、五稜郭築造の際、幕臣遠野甚兵衛なるもの、上磯郡有川村に樹苗を養成し植栽したもの。

 

箱館の福次郎、千代田村名主才太郎の両人が共同して長万部、黒松内間の6里余の開削を出願し、資本を勇拂場所請負人山田文右衛門の支配人金兵衛に仰いで完成した。

 

 

 

 

松前藩、所管の穴平(有川村)の陣屋竣工し、衛兵、兵器を配備する。

 

 

 

 

 

 

箱館人家1,800軒諸国廻船幅湊の地。有川旅籠屋宿次役人。当別会所、旅籠屋。木古内人家100余旅籠アリ。

 

 

 

 

 

 

(三ツ谷郷)名主の小西四郎右衛門と百姓小西八郎右衛門が試作して、水田1町歩(大小股通)を新開し、玄米168升を収穫した。「冥加米上納致来」までになる。

 

 

 

 

 

 

慶応4年閏4月(1868年。明治元年)「三ツ谷村御手作場 三好郷と唱申候」吉田郷、三好郷、飯田郷(七重)、中島郷(大川)、鶴野郷(七重、大野)、亀、尾郷(銭亀沢)、鷲巣郷(上湯川)、堀川郷(下湯川)「一村立」に準じる扱いとなる。

 

 

 

 

 

 

富川村、富川ニ到ル人家百斗、多クハ漁家、此辺鰯魚甚タ多キ由。

 

 

 

1857

安政

4

46日 万年橋亀田百姓代松右衛門、久根別橋有川名主六兵衛、有川橋百姓勘左衛門、七重浜橋百姓九兵衛、右之者共異人上陸之節心附見張番申付二人扶持宛遣ス旨申渡ス。

箱館大町の機織場についで大野村(市渡)に機織場を設け、工女テウを担当させ、織方を付近の農家の児女にも教授した。

2月 谷地頭の鋳銭場で鋳銭開始(1両=6800文)

 

 

 

 

48日 馬頭観世音(秋葉神社境内)

 

3月 尻岸内古武井に本溶鉱炉建設着手

 

 

 

 

513日 七重浜、有川駅(150軒、名主六兵衛、陣屋は200人程出張) 三ツ谷駅50軒、豆、ソバ植付。富川村馬継所、漁家多し、下国氏旧地より古剣・古鏡・土器等拾い得。矢不来57軒。松前候の衛所、大砲3門あり。天神祠あり、1里抗あり。茂辺地宿90軒下国豊前給所。当別宿2728軒、御役所あり、600700石船6艘かゝる澗あり。三石村10軒(『罕有日記』)

 

5月 谷地頭に陶器製造所、紙漉湯をひらく。亀田葭川に官営馬市をひらく。箱館大町に機織場を設ける(文久2年廃止)。

 

 

 

 

519日 陸奥の僧法恵(乗経)、地蔵町の官地2万坪を借用して西本願寺掛所仮堂宇建設

 

614日 亀田に役所建設工事着手

 

 

 

 

51日 尾見雄三花沢奉行仰付られる。

 

七重村に馬市を開いて馬の増産を図り、七重薬園を設ける。

 

 

 

 

51日 茂辺地村川筋へ炭ガマ21新設する。

 

真宗西本願寺派の蝦夷地不況を許可する。

 

 

 

 

816日 中島辰三郎申立候七重浜御手作場農夫3人居小屋有川村江申付代金123分余にて出来の積

 

松川弁之助、奉行の命により箱館の蔵地3,100坪を開墾して、藍を耕作す。

 

 

 

 

109日 三谷村名主四郎左衛門百姓八郎右衛門、田地開発致すに付人夫手当いたし遣し候事格別難有相心得冥加之為米三石上納相願ふ段奇特に付願之通申付る旨申渡す。

 

在住中島辰三郎に勤農方を命じ諸村を巡回教諭させた。

 

 

 

 

10月 箱館願乗寺休泊所を建立せしこと。但馬、加賀、越前、能登並びに南部、津軽地方の門徒を召集し、濁川の開墾に当たる。

 

 

 

 

 

 

1225日 戸切地村にて当地初めて鯨漁有之候と差出す珍数事也

 

 

 

 

 

 

清水村、西本願寺の資力にて、但馬国より岡本吉兵衛先導し、濁川地所の内分裂して、9戸移住する。

 

 

 

 

 

 

幕府より賞状、農業世話方種田徳之丞

 

 

 

 

 

 

金子利吉、茂辺地より亀田村字船揚野に移転し良品を製造した。

 

 

 

 

 

 

奉行は上磯三ツ谷村に御手作場設置を企て農夫の熟練者3人を官費で移して開墾させたが成績頗る良く…同年末奉行所足軽吉田某の計画で上磯地内に越後から78戸を募入開墾して、吉田郷を形成した。

 

 

 

 

 

 

濁川より分裂して清水村を置く。

 

 

 

 

 

 

一冬鰊引網冥加金網一枚に付、金弐両づつ有川村、戸切地村、三ツ谷村、富川村、茂辺地村右村々より去年願出書差出願済を以て引網致末々漁事相応に有之候節は格段冥加を相納候事但、三ツ谷村、茂辺地村、富川村三ヶ所冬鯡引網冥加金当分無御座候(『蝦夷入北記』)

 

 

 

1858

安政

5

311日 濁川村開墾に付拝借1005か年賦

3月 鈴鹿甚右衛門、長坂長兵衛によって、毛無山山道開削工事が行われる。9月に完成。

229日 山背泊に遠見番所を設置する。

619日 幕府、菡日本在留外人に対しキリスト教を解禁す。

 

 

 

312日 中の郷種籾代10両拝借当10月返納之儀右村頭取へ申渡之(『村垣淡路守公務日誌』)

 

619日 箱館奉行、箱館近村の出願により医師に種痘させる。

619日 日米修好通商条約調印

 

 

 

3月 種田惟善ヲ戸切地屯営ニ徒居シ、勘定方従事セシム。種田惟善ヲ勘定吟味摂行ヲ以テ戸切地屯営ニ従事セシム、駒木根正甫に代ル。

 

93日 ロシアの箱館駐在領事ゴスケヴィッチ家族同伴で軍艦ジギット号で箱館入港

78日 幕府、外国奉行を設置す。

 

 

 

1018日 吉田由蔵(天保2年(1831)生まれ)越後国吉北蒲原郡稲岡新田から妻子と上磯に移住。文久2年(1862)から明治13年(1880)まで名主をつとめた。

 

美濃国、陶工岩次、為次、谷地頭に窯を築き製造を開始

ロシアよりギリシャ正教進出する。

 

 

 

12月 専念寺掛所を東光寺と改称する。

 

 

 

 

 

 

堀川乗経北陸から農民を移し清水郷を開く。

 

 

 

 

 

 

旧幕吏中島辰三郎の発意により幕府に建言し越後国蒲原郡の者吉田久次郎をはじめて他7名を移住せしめ最初官費を以耕地を開墾し当時村名を付せす官費を以て開墾する所なるを以て御手作場と称す。

 

 

 

 

 

 

清水郷。僧堀川乗経(箱館本願寺、西本願寺)檀家国領平七と協議の上、濁川村に55万坪の地を請い、翌64月本山より但馬、越前、加賀、能登等より募集せる農民374名を移し此地を開拓せしめ万延元年1寺を創設せり。然るに其後、農民は離散し、僅かに70余名を留むるにすぎざる有様であった。*西本願寺は、天保の凶荒対策と布教の進出を併せて目論んだ。

 

 

 

 

 

 

 枳 天堂、観音庵(現広徳寺)看住、泰心和尚が、9月に堂庵を境内に創建

 

 

 

 

 

 

栗本瀬兵衛の建議により、奉行は久根別川を浤渫して小舟の通行を容易にしたので七重村の林産や蔬菜を箱館へ送り帰船には肥料の糞尿を積みもどるようになった。

 

 

 

 

 

 

組頭河津三郎太郎は養蚕を農村婦女子に伝習せしめんとし、蚕種を奥州桑折福島等より移入して配布し、安政52月、熟練せる同心立勝三郎足軽小頭鈴木三右衛門を世話方とし、各村を巡回教諭せしめたり。尚蚕は価を定めて産物会所へ買上げたるが其価は安政41升に付35分なりしという。

 

 

 

 

 

 

七重村及び藤山郷には八王子千人同心指定厄介及び上野、下野両国より募集せる農夫10戸あり何れも斯業に従事し又、濁川文月、一本木、中の郷等の諸村は出願して官舎を借り、蚕室を建築し養蚕に励んだ。

 

 

 

 

 

 

栗本一安、佐渡より取寄た松種を植え松苗10万本を育て、亀田五稜郭通の両側、箱館より七重浜経由大野・有川村に至る官道、箱館より亀田、桔梗野を経て七重に至る道に列植した。

 

 

 

 

 

 

(清水村)但馬岡本吉兵衛が移住、9戸で開墾に着手。牡馬1頭、牝馬7頭を購入飼育。5月〜9月共同牧場に放牧。その後厩舎で管理。共同牧場=清水村の西側の上磯地内に官民共同ノ牧場アリ、反別3933429歩上磯・吉田・中野・濁川・清水合計5か村共同で使用

 

 

 

 

 

 

斉藤三平、蝦夷地へ渡り、箱館の鉄山を管理する一方で、茂辺地や三谷村の開墾、並びに馬鈴薯栽培と焼酎作りを行った。

 

 

 

1859

安政

6

1114日 当別トラピスト修道院の初代院長フランソワプリエ、フランスに生まれる。

 

8月 大町運上会所落成

62日 箱館、神奈川、長崎の3港を開港

 

 

 

中島辰三郎三好郷をひらく。三好郷在住中島辰三郎の世話により開拓に着手したところで里人は御用畑と称した。

 

奥羽6藩(津軽、南部、秋田、仙台、庄内、会津)の蝦夷地所領を定め箱館奉行の管轄区域を縮小す。

 

 

 

 

本多桂次郎(尾張の陶工)箱館奉行の招きで渡来、茂辺地で陶器を焼く。

 

木津孝吉、ロシア領事ゴスケヴィッチから洋服の仕立方を習得し、ゼレンスケから写真術を習う。

 

1860

 

7

2月 東本願寺桔梗野から七重浜に至る道路800間(幅6尺深4尺)の堀を其両側に穿った。人夫1間の堀賃3朱宛、此費用922両余。その新街道の両側に柳1,300本を植付けたり、牧場の土塁を築いたり、悪水除けを作ったりした。工事費は、莫大な費用を要した。

 

8月 尻岸内古武井で大砲鋳造す。

113日 幕府の軍艦咸臨丸、品川を発しアメリカに向かう。

 

 

 

 

 

9月 箱館のロシア領事館植物学者マキシモヴィッチ、箱館山をはじめ箱館周辺の植物を採集する。

33日 桜田門外の変(大老井伊直弼殺害)

 

 

 

 

 

116日 箱館奉行堀利熈老中と意見の相違を生じ自害

アメリカよりミシンが日本に入る。

 

 

 

 

 

ロシア領事館の隣りにハリストス聖堂を建立す。

 

1860

万延

1

10月 上磯郡清水村に願乗寺休泊所として一坊を創立す。文久2年宣法庵と改称。明治2年農夫帰国し永続し難きにより明治11年江差に移転、12年本願寺別院となる。

 

424日 箱館大火

 

 

 

 

種を近村より購求して初めて稲を播種したが不熟にして一切収穫なし清水村

 

9月 前田夏陰、目賀田守蔭両名幕命により「蝦夷志料」編集す。

 

 

 

 

 

 

鈴鹿甚右衛門、江差近郷で収穫した馬鈴薯をもって焼酎を製造す。事業3年にて中止

 

1861

文久

1

7月 本山西本願寺より昌雲なる者下着して、濁川願乗寺休泊所を「宣法庵」(明治11年江差へ移転し後に同派別院となる。)と公称

 

326日 幕府、箱館表に人足寄場を設け、江都の軽犯罪者等を送り蝦夷地で労役に服せしむ。

4月 幕府、大坂、兵庫、新潟の開港を延期す。

 

 

 

陶工岩治、官金500余両を借り、茂辺地に於いて煉瓦を製造し後、屋根瓦1枚につき銭5文の冥加を以て返納する筈なりしが、其成績不良に終わる。

 

714日 ハリストス正教の宣教師ニコライが来函。明治2年一旦ロシアに帰還、明治4年再び来函する。

 

 

 

 

三ツ谷の御手作場田69反となる。

 

92日、江差大火。123日、夜六ツ半、江差出火、50軒焼失

 

 

 

 

戸切地陣屋屯田の策を講じ、塁を去る8町の丘麓に永住長屋48戸を建築士、士卆を土着せしむ。

 

箱館にブラキストン来航する。

 

 

 

 

種田葽次、上磯村に寺子屋を開く。

 

 

 

1862

文久

2

915日 吉田村稲荷社五穀豊就のため村中にて勧請。吉田由蔵吉田村の名主となる。(明治13年まで)

アメリカ人技師のウィリアム・ブレイク、ラファエル・パンペリー、大野市渡など地質調査。

箱館の人足寄場を久遠郡臼別に移す。

211日 皇女和宮将軍家茂に降嫁

 

 

 

熊谷宇兵衛、水路開削に着手(通商宇兵衛堀り)

文月道路へ赤松が植えられる。

箱館に大火あり。箱館、福山暴風、被害出る。

821日 生麦事件起こる。

 

 

 

種田徳左衛門、安政6年(1859)から文久2年(1862)に亘り戸切地屯営予備として「玄米500苞、4斗入」を献上した。この功により徳左衛門は5月松前藩より「掛軸」や「白銀」を賞与された。

 

亀田八幡宮の拝殿修築なる。(市内で最も古い建物)

11月 長崎の上野彦馬写真館を開業す。

 

 

 

 

 

西本願寺掛所願乗寺が箱館に竣工す。

信州竜岡城着工(慶応3年竣工。五稜星型)

1863

文久

3

佐藤融山(谷好寺僧侶)、谷好村に寺子屋を開く。

 

 

時計が日本に輸入される。

 

 

 

種田金十郎従来ノ引網ヲ廃シ始テ建網ヲ設ケタルニ、其年以外ノ豊漁ニシテ鰊千石余、此売価千五百両余トナリ。建網ハ金十郎ヲ以テ嚆矢トス。(『農事篤志者履歴書』)

 

 

 

1864

元治

1

310日 倉稲魂命を野端に五穀豊穣のため勧請(明治11年、有川大神宮に合祭)

 

3月 幕府岩内の茅沼炭山を開坑す。

718日 長州藩兵、伏見鳥羽で交戦

 

 

 

816日 箱館奉行所、当分の間、津軽家人数が亀田橋最寄並びに湯川村内に、松前家人数が戸切地橋並びにクネベツ橋辺に出張、従来の旅人改めを実施する件を触れる。

 

615日 亀田役所(五稜郭)竣工

719日 禁門の変

 

 

 

池田茂逢、茂辺地村に寺子屋鈴光堂を開く。

 

 

82日 第1回長州征伐(814日講和)

 

 

 

種田金十郎、松前崇広、老中格海陸軍総奉行就任に付、200両献上し松前家より賞せられる。

 

 

822日 国際赤十字条約成立

 

 

 

中野村水田18反歩を開増す。

 

 

 

1865

元治

2

 

 

9月 森村でアイヌ人墓地発掘事件

916日 英米仏蘭4か国公使ら条約勅許を強請す。(兵庫開港を要求し兵庫に軍艦を入港)

 

 

 

 

 

101日 幕府、兵庫開港問題に関し、松前崇広の官位を取消し、藩地謹慎を命ず。

 

1865

慶応

1

4月 富川出火の際、英岳庵類焼す。

 

711日 キハナイ(木間内)番所取建仰達せられる。

112日 幕府軍艦開陽丸進水式を行う。

 

 

 

 

624日 藤田市五郎、大野村に生まれる。居村の千代田村住民のため、2,200間余の灌漑を掘り60余町歩の水田を開き西洋野菜栽培法を伝え箱館付近の野菜地とした。

 

 

 

 

 

妙隆寺、3月、元有川村人民の内、日蓮宗信仰の者一寺を建立し妙隆庵と号す。明治12年、妙隆寺を改称し今日に及ぶ。(小松太郎衛門他信徒箱館奉行所に出願し、住職日隆同所の許可を得た。)

 

 

 

1866

慶応

2

815日 清川村稲荷神社勧請

 

320日 ロシア病院(大工町)焼失

121日 薩長同盟成立

 

 

 

815日 谷好村字西中野(三好村)八幡宮勧請

 

320日 ヲタルナイ出火300軒焼失。野火にてハリウスまで類焼する。

125日 徳川慶喜第15代将軍となる。

 

 

 

11月 箱館奉行、行旅の者取締りのため、有川村地内大橋・久根別橋、木古内村鮫川橋の3川橋に柵並びに勤番所設置の意を幕府に報告

 

3月 上ノ国建網、村網として初めて建てる。

全国的に農民一揆打ちこわし激化する。

 

 

 

26戸移住して三好村という。

 

426日 崇広38歳で死去

 

 

 

 

秀岳庵、第7世教円の代に再建す。

 

89日 箱館在留の各国領事、箱館奉行に蚕卵紙改印は条約違反と抗議す。

 

 

 

 

上磯八幡宮神官、永井義房、寺子屋開始

 

826日 暮65分申酉の間に当て異星顕る。形玉の如くにして大きさ2尺余、光上下に照しくずれる如くにして同時に下る。(『江差町史年表』)

 

 

 

 

在方戸口、家数2,492軒、人別14,912人「亀田村、有川村、戸切地村、吉田郷、三ツ谷村、三好郷、富川村、茂辺地村、当別村、大当別村、泉沢村、釜谷村、三ツ石村、札刈村、木古内村、下湯の川村、上湯の川村、志苔村、銭亀沢村、石崎村、鍛冶村、神山村、赤川村、大川村、中島郷、鶴野郷、七重村、飯田郷、城山郷、藤山郷、峠下村、市ノ渡村、本郷、大野村、文月村、中野郷、千代田郷、一本木村」(『北海道史要』)

 

912日 江差出火、焼失1,000余軒

 

 

 

 

御手作場を吉田村と称すべき官達あり。

 

9月 箱館に町兵を置く。秤座出張所を設置

 

 

 

 

箱館附村々不定小物成勘定組書付。一、金331分永1471歩…箱館外1ヶ村店役此調銭27100文但右同相場。以下富川村外2ヶ村差荷役、砂原村外4ヶ村各鯡引網冥加箱館町外9ヶ村鰯引網冥加砂原村外1ヶ村鯡5貫役、箱館町豆腐役。但右同相場、合金282両永709分(『北海道史要』)

 

123日 箱館奉行所、米価格外に騰貴するにつき外国商人より外国米を自由に買入れるべし旨触れる。

 

 

 

 

松前家より種田金十郎、御勘定吟味役被仰付且年末出精相勤候ニ付格別之以御沙汰永々御手先組本席被仰付

 

奥羽地方凶作、箱館奉行市中に粥食を令す。

 

 

 

 

種田徳之丞、岡田半兵衛の古平、室蘭、幌別、絵巴の場所請負を肩代りする。

 

松前修広、第18代松前藩主となる。

 

 

 

 

上磯町三谷村御作場に新たに26戸移住、三好村として独立した。

 

幕吏大友亀太郎箱館近在の農民を札幌村に移し開墾に着手

 

1867

慶応

3

1月 箱館の出入口に当たる有川村大橋、久根別橋、鮫川橋の3か所に柵門を設け通行人を改める。

 

417日、松前藩主徳広、重ねて前藩主崇広の咎の赦免を請う。524日、幕府、これを許す。

520日(新暦622日)開陽丸横浜引渡し

 

 

 

中川嘉兵衛、箱館に来て上磯の有川に砕採氷場を作ったが暖気のため失敗

 

4月 アイヌ人骨3箱返付される。

1014日 徳川慶喜、大政奉還(翌日勅許)

 

 

 

 

 

93日 箱館奉行、杉浦勝誠、各国領事と協議して箱館港則を定める。

129日 王政復古の大号令

 

 

 

 

 

箱館奉行においてプロシア人ガルトネルに箱館近郊亀田村に田畑試作を命ずる。

 

1868

慶応

4

412日 仁和寺宮を総督に拝し、箱館裁判所を設置した。箱館奉行より政務引継53項目の内関係分有川橋、久根別橋、常盤橋、万年橋掛替に入用金下渡せし事

 

417日 政府、蝦夷地開拓条項を指令

13日 鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争始まる。)

 

 

 

4月 岩治の製陶不成功、本多桂次郎製陶のため茂辺地へ転住する。

 

4月 箱館ハリストス正教会創立

314日 天皇、5か条を誓約(5箇条の誓文)

 

 

 

6月 菊池出雲守、藤山長門、種田宮内、蝦夷全島社家触頭被付候間、社人一統之名前早々差出可申候事。裁判所

 

44日 小樽内、銭函の漁民600人余、賦役の半減・借米の棄損を求めて官署を襲う。(小樽内騒動)

328日 神社が仏教語を神号とすること及び仏像を神体とすることを禁止(神仏判然令)

 

 

 

 

 

424日 箱館裁判所を箱館府と改称。51日、箱館裁判所を五稜郭に開庁。

421日 新政府、太政官制を定める。(七官両局制)

 

 

 

 

 

75日 仙台の浪人花輪五郎、平山金十郎等同志五稜郭襲撃を策動して失敗

53日 奥羽25藩、仙台に会合して同盟条約を決議。ついで北陸6藩も加盟して奥羽越列藩同盟が成立

 

 

 

 

 

728日、松前藩に正義隊結成され、81日クーデター決行

515日 新紙幣(太政官札)5種(10両・5両・1両・1分・1朱)を発行

 

 

 

 

 

811日 南部藩兵箱館の陣営を焼いて退去

717日 詔書を出して江戸を東京と改称

 

 

 

 

 

828日 館新城急拠起工(91日)。10月移転、館藩を名乗る。

819日 榎本釜次郎軍艦8隻を率い品川湾を脱走北上

 

 

 

 

 

 

98日 慶応4年を明治元年と改め、一世一元の制を定める。

 

 

 

 

 

 

軍政の儀、西洋銃隊採用となる。

 



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