古墳時代から
江戸時代まで

西暦

和暦

()

旧上磯町  【北 斗 市】  旧大野町

北海道

全国

658

斉明

4

 

 

阿部臣、蝦夷を討伐。粛慎を討伐す。熊の皮70枚、生熊2頭を朝廷に献ず。

 

659

 

5

 

 

3月 阿部臣、渡島蝦夷を討伐し群領を後方羊蹄に置く。

 

660

 

6

 

 

阿部臣、船師200艘を率い、渡島の粛慎を討伐す。

 

696

持統

10

 

 

312日 越度島の蝦夷の伊奈理武志と粛慎の志良守叡草に錦袍袴、緋紺絁、斧などを賜う。

 

717

養老

1

 

 

 

征夷の号初めて史実に見ゆ。

718

 

2

 

 

8月 渡島の蝦夷および出羽の蝦夷87人、京に上り、馬1,000頭を貢す。

 

720

 

4

 

 

渡嶋津軽津司の諸君鞍男等6人を靺鞨国に遣わし風俗を視察させる。

 

727

神亀

4

 

 

渤海郡の使節、蝦夷の境に着し、16人殺され、8人は逃れて出羽に至る。

 

737

天平

9

 

 

414日 北方地域を「賊地」と表記して、「日本書紀」に散見した「国」呼称は消失する。

 

771

宝亀

2

 

 

2月 陸奥蝦夷大いに乱る。出羽国に勅して渡嶋蝦夷を慰撫させる。

 

780

 

11

 

 

5月 出羽国に勅して、渡嶋の蝦夷を慰撫させる。

 

797

延暦

16

 

 

 

坂上田村麻呂、征夷大将軍となる。

802

 

21

 

 

渡島の蝦夷朝貢、獣皮を貢す。

 

810

弘仁

1

 

 

1027日 渡島の蝦夷200余人、陸奥国気仙郡に来着。

 

875

貞観

17

 

 

11月 渡島の蝦夷反乱し、秋田、飽海2郡の民21人を殺傷す。

 

879

元慶

3

 

 

1月 渡島の蝦夷103人、種族3,000余人を率い秋田城に来て聖化を帰慕すという。

 

893

寛平

5

 

 

515日 渡嶋狄と奥地の俘囚とが戦端を開く情勢となり、出羽国は城砦を固めた。

 

1060

康平

3

 

意冨比神社の鰐口に「康平三年」という銘がある。

 

 

1062

 

5

 

 

 

源頼義、出羽の清原武則の授けを得て安倍貞任宗任を衣川鳥海厨川柵に破り貞任を殺し、宗人を降伏させる。(前九年役平定)

1064

康平

7

 

 

329日 「朝野群載」で「狄地」と呼ぶ。11世紀に入ると「胡地」と呼ぶ。

 

1087

永保

3

 

 

 

藤原秀郷の子孫、亘理経清の子清衡が源義家に加勢し、清原氏を滅ぼし、奥6郡と山北3郡を統一的に支配した。

 

寛治

1

 

 

 

12月 義家金沢柵をおとしいれ、清原武衝、家衝らを誅殺したことを報告(後三年の役平定)

1102

康和

4

 

 

 

安東氏の祖、安倍氏季の頃、津軽山王坊十三宗寺の原型が創置(天台宗に属す。)された。

1189

文治

5

 

 

源頼朝、藤原泰衡を討滅す。泰衡の部下蝦狄嶋に逃れ入るものあり。

430日 源義経、奥州高館に敗北して自尽

 

 

 

 

 

 

9月 源頼朝、奥州を制覇(藤原氏滅亡)

1192

建久

3

 

 

 

7月 源頼朝、征夷大将軍となる。

1205-1234

元久2〜文暦元年

 

 

 

 

津軽の豪族安東氏、執権北条義時の代官として夷方を守護

1229-1284

寛喜〜宝治

 

 

 

 

津軽安東氏、十三湊の十三氏(藤原氏一族)を破り、津軽田舎郡藤崎より根拠地を十三湊に移す。当時十三湊は「三津七湊」に数えられていた。

1216

建保

4

 

 

6月 鎌倉幕府、強盗海賊の類50余人を夷島に放つ。

 

1219-1224

承久元年〜元仁元年

 

 

 

 

北条義時により鎮守府将軍秋田城介にかわり、安東五郎を津軽に駐屯させ蝦夷管領とする。

1235

文暦

2

 

 

7月 幕府、夜討強盗の輩を夷島に流すことを沙汰

 

1247

宝治

1

 

 

 

529日 陸奥国津軽の海辺、大魚流寄す。

1251

建長

3

 

 

幕府、讃岐国海賊張本らの蝦夷嶋流刑を決定

 

1268

文永

5

 

 

 

蝦夷の反乱、「蝦夷管領」安東五郎殺害される。

1296

永仁

4

 

 

日蓮の高弟、日持渡来石崎(亀田郡)に住し布教す。(函館をはじめ各地に口碑伝説あり)

 

1306

徳治

1

 

 

 

関東御免津軽船12隻の1隻、蝦夷地海産物や蝦夷地と山丹人の貿易品を積んで越前沿岸で難破す。

1312-1317

正和年中

 

 

 

 

安東氏、北条氏にそむき津軽十三湊に居を置く。

1318

文保

2

 

 

 

蝦夷の反乱

1321

元享

1

 

 

 

この年より嘉歴3年(1328)にわたる津軽安東氏の内紛により、安東氏の勢力衰退す。それより下口安東、湊安東、潮潟安東の3家に分裂

1324

正中

1

 

 

 

鶴岡八幡宮社務職顕弁ら、蝦夷降伏のため執権北条高時邸において五檀護摩を修法する。

1325

 

2

 

 

 

66日 幕府安東又太郎季長にかえて五郎三郎季久を代官職に補す。

1326

嘉暦

1

 

 

 

329日 工藤右衛門尉祐貞、安東の乱鎮圧(蝦夷征伐)のため鎌倉を進発、又太郎季長を虜にして帰参

1328

嘉歴

3

 

 

 

10月 安東氏の内紛に和解が成立し、宇都宮高貞、小田高知らが鎌倉に帰参

1333

元弘

3

 

 

 

522日 新田義貞に攻められて北条高時一族滅亡。時に安東又太郎は高時討伐軍に属して参戦したという。

1334

建武

1

 

 

 

この頃、僧玄恵作「庭訓往来」に宇賀の昆布、夷の鮭等の語がある。

1335

 

2

 

 

 

10月 足利尊氏、建武政権にそむく。時に安東五郎次郎家季は尊氏に呼応して南部師行らと戦う。

1352

正平

7

文和年間モンベツ沿岸(矢不来)に稀代の大松(中略)漂ひ来りければ(中略)丈一尺の木像ありけるを発見(中略)矢不来の地に勧請せり。(中略)地名ヤギナイをカムイヤンケナイと改め厚く尊崇せり。(口碑伝説)

 

 

 

1356

 

11

 

 

諏訪円忠の「諏訪大明神絵詞」中に「蝦夷が千島に渡党、日本党、唐子党の三党あり云々」の語あり。

 

1367

正平

22

 

 

貞治62月(北朝年号)の銘ある古碑、函館の称名寺に現存(宝暦28月函館大町の榊屋敷に井戸を掘りし際発見)

 

1390-1393

明徳年間

 

 

市渡の起源に、「明徳年間相原周防守藩士川村太郎率先して市渡に来住」という記録がある(『河野常吉文書』)。

 

 

1396

応永

3

有川大神宮 応永三(丙子)年九月、村中信仰ノ為造立スル所ニシテ別ニ記録等無之ニ付詳細ノ由緒全ク不詳(『社寺明細帳』<上磯町役簿書>)

 

 

 

1404

 

11

 

 

応永11年(甲申)327日の銘がある鰐口、知内より出土。荒木大学薬師堂を渡島の知内温泉に建つ。

 

1411

 

18

 

 

 

1月 南部守行、秋田に出兵。湊の安東鹿季と戦い勝利して4月帰国

1423

応永

30

 

 

 

47日 安藤陸奥守、幕府に馬20匹、鳥5,000羽、 眼20,000匹、海虎皮30枚、昆布500把を献上

1394-1428

応永年間

 

 

 

金工後藤の徒、京都より蝦夷地に来住すという。これが蝦夷後藤の祖であるという。

 

1432

永享

4

十三湊にあって、蝦夷島を支配していた下国安東氏、南部氏に破れて渡島す。(時期、渡島者について諸説あり)

 

 

 

1439

 

11

 

 

夷島、脇沢山神(現在の函館市石崎町宮の沢)に奉納せる鰐口、石崎八幡神社に現存

 

1441

嘉吉

1

 

 

上国寺創立。泊観音寺創立(安政年間炎上)。

 

1442

 

2

 

 

秋、下国安東盛季、南部義政に攻められて十三湊を放棄。以後敗走を続け小泊より蝦夷島に逃げ渡る(嘉吉3年説あり)。

 

1443

嘉吉

3

嘉吉年中ニ冨川村開キ始ムト云フ。

 

1212日 下国安東太郎盛季南部大膳大夫義政と戦い、(中略)津軽小泊より松前に逃る。(中略)時に永善坊道明風を祈る。巽風起りて盛季の船(中略)矢不来に着す。故に今日に至るまで1212日の巽風を道明風という。(『福山秘府』・『新羅之記録』)

 

 

 

 

 

 

弥保田館、比石館創設

 

1444

文安

1

 

 

盛季津軽に寄港途中漂流溺死すとある。

 

1446

 

3

 

 

下国康季故地回復目的で津軽に渡る。

 

1447

 

4

 

 

姥神神社創設

 

1450

宝徳

2

 

 

中野建創設

 

1451

 

3

有川大神宮、宝徳3年(辛末)、種田左近胤直奉仕

 

宝徳3年若州の屋形武田大膳太夫国信の嫡子若狭守信広渡島す。

 

 

 

 

康季父(盛季)の仇を報じ且つ旧領を復せんと即津軽へ亘りしも不幸その地に客死す。盛季の弟道貞の孫なる安東政季舎弟家季の両人茂辺地へ渡る。

 

 

 

1453

享徳

2

 

 

下国義季、南部氏と戦い生害、盛季病死。

 

1454

 

3

茂別館、箱館創設という。

 

828日 安東盛季の孫、政季南部より逃れて蝦夷地に渡来。武田信弘、河野政通、相原政胤らこれに従う。(河野政通、宇須岸に館を築き、これに拠る。その形箱に似るところから、土地の人ら地名を「箱館」と呼称すという。)

 

1456

康正

2

この頃、道南地方の築きたる館、12を数う。

 

安藤政季、湊安東の招きで出羽に帰り、湊家の援助を受け河北郡をおさめ、津軽を回復しようとして長享2年(1488)破れる。

 

 

 

 

政季離島に際し、茂別館を張り老式部大輔家政に護らせ、箱館の河野政通を補佐とし、松前は下国定季を守護、相原政胤を補佐とし、上ノ国は武田信弘を守護、蠣崎季繁を補佐として蝦夷地を護らせたという。

 

 

 

 

 

 

茂別館上磯郡茂別村茂辺地下国安東八郎式部大輔家政(「松前下国氏大系図」)

 

 

 

1457

康正

3

514日 東部の酋長コシャマイン大挙して侵攻し来り、志濃里、箱館を占拠、さらに各地の館を攻略、茂別、花沢以外の諸館陥れる。

 

 

 

1457

長禄

1

 

 

コシャマインの蜂起起こる。この蜂起を鎮定した武田信弘は蠣崎家を相続、勝山館、洲崎館を築城

 

1458

 

2

茂別家政、蠣崎季繁、武田信弘等蝦夷と戦い、酋長胡奢魔允父子を斬り余党を悉く平ぐ。

 

 

 

1459

長禄

3

 

 

小山隆政、信広に誘殺(78歳)される。その子季政泊村尾山に逃れる。隆政を岩亀沢神社に祀る。

 

 

 

 

 

 

宇須岸の随岸寺を大館に移す。大館(現松前)移転後文明18年の火災で焼失し以後再興されず。

 

1462

寛政

3

 

 

5月 蠣崎季繁没す。信広毘沙門堂(砂館神社)建立

 

1466

文正

1

 

 

信広、真言僧の秀延阿闍梨を開山とし、上国寺の堂宇を上ノ国に造営。上国寺は十代の了徹和尚の頃浄土宗に改宗した。

 

1467

応仁

1

 

 

 

応仁の乱起こる。

1468

 

2

茂別館主の下国家政の孫たる安東師季が蝦夷地において熊野信仰を最初にとり入れた。

 

 

 

1469

文明

1

 

 

若狭の僧随芳、奥尻に草庵建立(延徳2年(1490)上ノ国に移し、後福山に移す。)

 

1470

 

2

 

 

129日 下国安東政季、河北郡より津軽に討ち入り藤崎の館を攻撃

 

1471

 

3

 

 

蝦夷人に疫病流行し、風害、飢饉等が重なり夷人の死亡する者多し。

 

1473

 

5

 

 

信広、上ノ国八幡社建立

 

1479

 

11

 

 

蠣崎義弘(光広の長男、松前家3世)誕生。蠣崎三郎と称し、のち泊館主となる。

 

1486

文明

18

 

 

大館火災に遭い、宇須館(箱館)より移した随岸寺亡失。

 

1488

長享

2

 

 

下国安東政季、家臣長木大和の謀反にあい、河北糠野館で自害

 

1490

延徳

2

 

 

禅僧随芳(若狭正明寺住僧)が文明元年に奥尻に渡り法源寺の寺基を定めたが、この年、大館に移され信広・2世光広の菩提寺となる。

 

1494

明応

3

 

 

蠣崎信弘(64歳)没し、夷王山に葬る。光広2代を継ぐ。

 

1495

 

4

 

 

下国安東忠季、葛西出羽守秀晴の没落後、津軽地方に威を張り、桧山に築城し桧山城主下国安東太郎として、蝦夷島の支配者の地位を保持したという。

 

1496

 

5

 

 

蠣崎光弘家臣と謀り下国恒季を殺す。相原季胤(政胤の子)大館を守る。

 

1499

 

8

 

 

上ノ国に鎌倉新仏教の一派である浄土真宗が初めて伝通される。(浄願寺建築)

 

 

明応

 

 

 

初代弘賢・2代了明・3代了専の時、アイヌ民族の攻撃に耐えられず、永正末年頃、秋田士崎に引上げた。

 

1501

文亀

1

茂別家政没(茂別館の館主)

 

 

 

 

 

 

文亀年中野崎村(後戸切地村ノ支村トナレリ)ノ管主岡田文太夫ナル人は以下ノ者数名ト戸切地川(住者蝦夷人ベキリベツト云フ)下流ノ辺ニ鮭漁ノ見ヲ以テ移住シ此川名ヲ採リテ村称トナセリト。(『上磯・谷好・富川・中野・清川五ヶ村沿革調』<上磯町役場簿書>)

 

 

 

1502

文亀

2

 

 

松前大沢に永善坊(のち明和3年(1766)に慈眼寺寺と改号)を造営。永正14年(1517)徳山に移転させた。

 

1504

永正

1

菊池平作ナルモノ内地ヨリ来リテ初メテ有川近傍ニ移住シ川名アシリベツノ称ヲ借リ村名トナセリト云フ。(『上磯・谷好・富川・中野・清川五ヶ村沿革調』<上磯町役場簿書>)

 

 

 

 

 

 

有川村の住民が「まるっぽ」という漁具を用いて漁を行う。

 

 

 

1507

 

4

 

 

11月 蠣崎季広(義広の長男、松前家4世)誕生

 

1508-1512

 

5-12

いずれかに、茂別館主の下国氏が松前に移転した。

 

 

 

1509

 

6

 

 

泊館主高広剃髪して観音寺に入る。永快阿闍梨。高広の長男、基広誕生

 

1512

永正

9

 

 

4月 蝦夷蜂起し、志苔の小林良定、与倉前の小林秀景、箱館の河野季道ら、ことごとく敗死。これにより荒廃久しく亀田に中心が移る。蝦夷の中心福山、江差に移る。

 

 

 

 

アイヌ民族との「大館合戦」で、茂辺地より移した阿吽寺(慈眼寺)が燃えた。

 

 

 

1513

 

10

 

 

蝦夷大館を攻めるに当たり、蠣崎光弘(松前家第2代)もまた大館を攻む。光広十三湊安東政季の弟秋田桧山安東庶季の代官(地頭)として蝦夷地を管理

 

1514

 

11

 

 

3月 蠣崎光広、船180艘率いて大館に入り修築して徳山と名付ける。

 

1515

 

12

 

 

6月 東部の酋長シヨヤ、コウシの兄弟徳山に侵攻し来り、光広いつわって和し、のちこれを討つ。

 

1518

永正

15

 

 

712日 蠣崎光弘没し(63歳)、義広3代を継ぐ。

 

1521

大永

1

 

 

高広没し、子基広勝山を守る。日尋上ノ国小堀に法華堂を創立

 

1525

 

5

 

 

春、蝦夷蜂起、和人殺害される。生存者松前と天の川に集住す。

 

1527

 

7

 

 

大館の阿吽寺を義広が再興し、正式に蠣崎正権の祈願所とする。中興開山は光広の2男高広(永快阿闍梨)

 

1528

大永

8

523日 暴風雨の夜、柵外の夷賊を、義広が槍で突貫いたので、他の賊は皆敗走した。後にこの槍を岡田文太夫が研いだ。

 

 

 

1529

享禄

2

 

 

西部のアイヌ首長タナサカシ(タナケシともいう)瀬田内に出陣、上ノ国を攻撃。九兵衛祐到に謀られて徳山に来たところ義広に望楼上より大箭にて殺害され、残りのアイヌはことごとく敗北する。

 

1532

天文

1

上磯村字上町郷社八幡宮社勧請年間不詳天文元壬辰9月松前藩士下国清左衛門支配ノ節武運長久ノ為メ再建(『上磯・谷好・富川・中野・清川五ヶ村沿革調』<上磯町役場簿書>)

 

 

 

1533

 

2

下国清左衛門が濁川村に雷公神社を建立

 

 

 

1534

 

3

 

 

49日 桧山の下国安東尋季死去。子の舜季が後を嗣ぐともいう(「秋田家系図」)。「下国家系図」では天文1628日に桧山の下国安東尋季死去とある。

 

1536

 

5

 

 

6月 西部の首長タリコナ(タケナシの女婿)来侵、義広いつわって和し、のちこれを討つ。

 

1543

 

12

 

 

夏、義広使を若狭に派して、武田信豊に聘問せしむ。

ポルトガルより鉄砲伝来

1544

 

13

 

 

桧山、湊家合併、桧山安東太郎舜季が惣領家を領有する。

 

1545

天文

14

 

 

819日 蠣崎義弘没し(67歳)、季広第4代を継ぐ。

 

1546

 

15

 

 

夏、法憧寺を再興する。以後、松前家累代の菩提所とする。

 

1548

 

17

 

 

春、上ノ国基広反逆

 

1549

 

18

 

 

季広、前年の基広の陰謀露顕は毘沙門天の加護によるとして上ノ国天の川の毘沙門堂を修造

7月 フランシスコ・ザビエル、鹿児島に上陸

1550

 

19

蠣崎千代尋季に至り蝦夷の懐柔政策軌道に乗り、西は熊石、東は亀田に至る和人居住地の支配が確立

 

623日 桧山館主尋季の嫡男舜季、国司として初めて渡海、大館に至る。(東公之島渡という。)

 

1551

 

20

蠣崎季広、東西の蝦夷と和し、夷地交易の制を定む。(渡島南部における和人の勢力が固まる。)

 

 

 

 

 

 

<東はチモコタケンを知内、西はハシタケンを天の川に住まわせる。>

 

 

 

1554

天文

23

 

 

811日 松山の下国安東舜季死去。子の愛季が松山安東氏を継ぐ。

 

1559

永禄

2

上磯村字上町郷社八幡宮社 永禄二巳未年ニ至テ永井是則奉仕 同六癸亥年九月社殿造営(『社寺明細帳』上磯町役場簿書)

 

 

 

1562

 

5

6月 茂別館主下国師季、夷賊の攻むるところとなり徳山に逃げる。

 

 

 

1568

 

11

 

 

 

9月 織田信長、足利義昭を奉じて京に入る。

1570

元亀

元亀年間

元亀年間(15701573年)、岡田文太夫という者戸切地川畔に来り鮭漁を営む。(口碑伝説)

 

 

 

1571

 

2

 

 

盛広(慶広の長男、松前家6世)、徳山城に誕生

 

1573

天正

1

910日 平野善五郎宗山村三柱ノ神社に鰐口を奉納す。

 

 

 

1578

 

6

 

 

夏、季広の五男正広、熊野に参詣し、途中安土で織田信長に謁す。

 

1582

 

10

 

 

 

6月 本能寺の変

1585

 

13

 

 

 

7月 秀吉、摂政関白に任ぜられる。

1586

 

14

 

 

 

12月 秀吉、太政大臣となり豊臣姓を名乗る。

1587

天正

15

 

 

湊茂季の子高季、仙北の戸沢九郎と結んで兵を興す。実季桧山城に拠り、高季を破り惣領家の面目を保つ。その後秋田城に移り秋田城之介実季と称す。(三春秋田氏の祖なり。)

 

1588

 

16

 

 

 

7月 秀吉、諸国の刀狩を命ず。

1589

 

17

 

 

福山城消失

 

1590

 

18

村社雷公神社、建立

 

1229日 蠣崎慶広、京に上り秀吉に謁す。蝦夷嶋主を以て待遇せられる。是より安東氏の配下を脱して独立す。

7月 秀吉、小田原城攻略、次いで奥州を征服

1591

 

19

 

 

5月 南部9戸政実反し、秀吉諸将に命じこれを討伐。慶広兵及び蝦夷を率いて参加す。

 

 

 

 

 

 

天正年間より、近江の商人蝦夷地に来住す。

 

1592

天正

20

 

 

蝦夷人に疫病流行し死者多数出る。

1月 秀吉、征明の軍の役割を定む。(諸将朝鮮に出兵)、慶広大坂に赴く。

1593

文禄

2

 

 

12日 慶広、名護屋の行営で秀吉に謁して、志摩守に任ぜられ制書を受く。帰国して、東西の蝦夷酋長を招集し制書を読み聞かす。(この時より安東氏の配下を離れ蝦夷島の領主となる。)

 

1594

 

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下国由季の時、茂辺地より福山に移る。

 

 

 



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