HOMEまち・ひと文化郷土資料館・文化・歴史郷土資料館 第16回特別展「国指定史跡 松前藩戸切地陣屋跡展 -北の守人-」

郷土資料館 第16回特別展「国指定史跡 松前藩戸切地陣屋跡展 -北の守人-」

北斗市郷土資料館では、2019年以降、日本で最初に築かれた星形城郭である国指定史跡・松前藩戸切地陣屋跡の真価を確かめるべく調査・研究を進め、各年度ごとの最新成果を反映させた「松前藩戸切地陣屋展」を例年春~初夏にかけてこれまで4回開催して参りました。

今回はその通算5回目にあたる、「国指定史跡松前藩戸切地陣屋跡展ー北の守人ー」を開催いたします。

今回の内容のご紹介の前に、これまでの「戸切地陣屋展」と、その研究のあゆみを簡単に振り返ります。

2023陣屋展ポスター

開催情報

日時

  • 令和5年4月29日(土曜日)から令和5年7月30日(日曜日)まで
    ※月曜日は休館です。月曜日が休日の場合は翌火曜日が休館となります。
  • 9時 から 17時 まで

会場

  • 北斗市郷土資料館 特別展示室(北斗市総合分庁舎 どり~みん 2階)

入場料

  • 無料

「松前藩戸切地陣屋跡展」について

令和元年度~4年度までの戸切地陣屋研究の成果と「松前藩戸切地陣屋跡展」

幕末から明治へと激動する歴史のせつな、「城」がその役割を大きく変えそして終えていく時代の夜空の中、道南を中心にまたたいた五稜郭をはじめとする「星形」の城たち。

その中でも日本で最も古く、今なお清川・野崎の丘に当時の姿をのこすのが「国指定史跡・松前藩戸切地陣屋跡」です。

これまであまり知られてこなかったこの稀有な星の城の姿を皆様にお伝えしたく、最初の「戸切地陣屋展」を開催したのが4年前、2019年のことでした。

同時に、これまで100数十年以上の間ほぼ手付かずであったといっても過言ではない戸切地陣屋の「城」としての真価とそれをとりまく人々のドラマと歴史の流れを探るべく、再評価に向けた調査・研究も並行して続け、毎年度の開催ごとにその時々の最新成果を反映させてまいりました。

以下に、これまで開催してきた「戸切地陣屋跡展」の概略についてご紹介します。

2019~2022年度開催の「松前藩戸切地陣屋跡展」

2019年度開催「北斗にまたたく

星の城・松前藩戸切地陣屋展」

2020年度開催「北斗にまたたく

星の城・松前藩戸切地陣屋展」

2021年度開催「ここまでわかった!

国指定史跡・松前藩戸切地陣屋展」

2022年度開催「国指定史跡松前藩

戸切地陣屋展・星の系譜」

2019陣屋展ポスター 2020陣屋展ポスター 2021陣屋展ポスター 2022陣屋展ポスター

戸切地陣屋の星の城としての姿を

ジオラマなどを用い紹介・解説。

はじまりはここからでした。

新たな調査により明らかになった

陣屋築造を巡る歴史的背景・人々

の姿などの情報を追加して紹介。

周辺地形や当時の洋学教本などを深く

調べることにより、「野崎の丘」全体

を活かした強固な防衛構造が明らかに。

戸切地陣屋の平面構造を調べることに

より、ヨーロッパから連綿と続く星形

堡塁の系譜上にあることが明らかに。

こうして、これまで続けてきた調査研究により、松前藩戸切地陣屋跡のなりたちとその歴史や、「野崎の丘」の地形を生かした日本唯一と言っても過言ではない「和洋折衷」の築城術からなる堅固な城の構造などについて、以前とは比較にならないほどその姿が明らかになってきました。

また、さらに進んだ研究によって判明した、戸切地星形の陣屋本陣の規則的かつ幾何学的な構造は、ヨーロッパで編み出され磨かれ進化した対砲戦に特化した城郭の築き方=稜堡式築城術に間違いなく基づくものであり、昨年度の研究でその基礎となった教本もほぼ特定できました。これは、戸切地陣屋がただ星形というだけではなく、幕末日本の洋学伝習のあり方を物的証拠として現在に伝える極めて貴重な土木建築であることも意味します。

これを、国内のあらゆる例に先んじて、わずか数か月の期間で築き、なおかつ今日まで非常に良好な状態でその姿を残し続けているのです。

現在、戸切地陣屋のもつ歴史的価値は、かつてわれわれが抱いていたイメージをはるかに超えたものであるといえるでしょう。

※ここまでの研究成果につきましては、昨年度開催の「ふるさと歴史講座」にて講演した内容を動画で公開しています。

 よろしければ右のリンクからご覧ください。 >>動画・資料公開ページへのリンク<<

今年度の「松前藩戸切地陣屋跡展」

昨年度までは、のこされた建築物=星形本陣にスポットをあてて調査研究内容の公開を行ってきましたが、今年度は、これまであまり触れてこなかった戸切地陣屋をとりまく「人」のつながりについてご紹介する内容となります。

軸となるのは、以下の二つの新発見資料になります。

(1)藤原正蔵墓碑分写し

藤原正蔵碑文

 戸切地陣屋の設計者・藤原主馬の父にして、松前藩・江戸幕府に仕え3度のエトロフ防衛任務に就き、その任地で生涯を終えた北方防衛の尽力者・藤原正蔵。

 彼の墓碑は今なお北方領土エトロフ島・振別にのこりますが、実はもう一つ、かつて松前に正蔵の弟子たちが彼をしたい建てた墓碑が存在しました。現在すでに実物は失われていますが、昭和30年代に藤原家の子孫が書き写したものがのこされており、今回それをお預かりし、解読を行いました。それによって浮かび上がってきたのは、箱館開港のはるか40年前に、海の向こうの国々や情勢の有様にまで目を凝らし、先見の明をもって北方の防衛を全うせんと尽力した彼の激動の生涯でした。その姿は、後に日本で初めて洋式星形築堡を実現させる息子・主馬にも重なるものです。

こちらについて、原文全文ならびに各文節ごとに書き下し・意訳を添えて展示しております。

(2)藤原主馬あて松前崇広親書

松前崇広書簡

 もうひとつの史料は、戸切地陣屋築造の前年、嘉永7年(1854年)5月2日に書かれた、当時の藩主・松前崇広から藤原主馬にあてて書かれた直筆の手紙です。これは、藤原家のご子孫の下にたった一つのこされた唯一のご遺品であったそうです。今回、そのコピーをお預かりし、解読しました。

 当時藤原主馬は、箱館開港に関する交渉に訪れていたペリー艦隊への応接と、本国である松前(福山)で実施される藩全体の西洋流砲術教練の采配というふたつの大仕事を抱えた状態でした。今回のこの書簡からは、この困難な「二刀流」のため文字通り東奔西走し活躍する藤原主馬の姿と、その姿をあつくたたえる崇広の信頼、そして藩主と一藩士の垣根を超え国事について語り合い、主馬の帰りを「一日千秋の思い」で待つといわしめるほどの強い君臣の絆をうかがうことができます。

崇広の藩士あて書簡としても貴重ですが、当時まさに開国直前の激動のただなかにあった彼らの姿をリアルに感じうる貴重な史料といえるでしょう。

こちらについては、原本のコピーならびにそれを解読翻刻したものに、意訳と補足情報を付して展示しています。

以上ふたつの新規史料を元に、ここ北海道の地で常に先進かつ先見の明をもち北方防衛にその生涯をささげながら、これまでその業績はほぼ全くと言っていいほど知られることのなかった「北の守人」藤原正蔵・藤原主馬父子の生きざまをみなさまにお伝えするとともに、このふたりがつないだ北方防衛にかけた思いの結実でもある戸切地陣屋跡についても、これまでの研究成果を元にジオラマなどを交えご紹介する特別展となっております。

展示総数はパネル102展、ジオラマ2基となっております。よろしければ足をお運びください。

また、本特別展での新規研究成果について、令和5年6月24日(土曜日)開催予定の「北斗市郷土資料館ふるさと歴史講座」にて講演予定です。

よろしければご聴講ください。参加要項などにつきましては次のリンクをご参照ください。>>ふるさと歴史講座ページへのリンク<<

国指定史跡・松前藩戸切地陣屋跡について

 松前藩戸切地陣屋は、1855(安政2)年に松前藩によって築かれた戌営(ぼえい、防衛拠点となる城のこと)です。

 時は幕末、前年には日米和親条約が結ばれ函館が開港となり、世界各国の船が捕鯨などを目的として蝦夷地(えぞち、今の北海道)周辺にあらわれるようになり、北方の国防を重視した江戸幕府は松前藩から蝦夷地のほとんどを召し上げ直轄することを決めます。一方、召し上げた領地を松前藩と東北四藩(弘前藩・南部藩・秋田藩・仙台藩)に分担して守るように命じ、このうち松前藩が警備を命じられたのが幕府の拠点である箱館奉行所のある函館平野一帯でした。

 これにあたり、松前藩は以前より城を築くのに適した場所として知られていた野崎の丘に戌営を築くことを決め、縄張り(設計)を砲術師範・藤原主馬(ふじわらしゅめ)に任せます。主馬は、十二代藩主・松前崇広(まつまえたかひろ)に命じられ、当時国内随一の洋学者として知られた佐久間象山(さくましょうざん)のもとで蘭学・西洋砲術・西洋築城術を学んでおり、函館港にアメリカ船が寄港した際には応接役もつとめています。藩主崇広もまた西洋通として知られ、こうした事情もあってか戸切地陣屋の本陣は当時日本では前例のなかった、ヨーロッパで発達した対砲戦築城法である「稜堡式城郭(りょうほしきじょうかく、「星形要塞」とも呼ばれます)」の型式でつくられました。

 同じ稜堡式城郭としては函館市の五稜郭(1864年築城)や四稜郭(1869年築城)、長野県の龍岡城(1865年築城)などが知られていますが、戸切地陣屋はそれらより古く、つまり日本で最初に築かれた星形要塞ということになります(西洋流の要塞としては「お台場」として知られる品川台場が1853年に築かれていますが、そちらは星形(稜堡式)ではなく多角形をとっています)。

 戸切地陣屋には今ものこる星形の本陣のほか、現在は桜のトンネルとして親しまれている門前の大通り沿いにも土塁で囲まれた武家屋敷が立ち並び、さながら丘全体を一つの城として、120から150名の兵が常駐して函館平野全体を見守っていました。守備隊長は、佐久間象山とならぶ幕末日本を代表する洋学者である江川英竜(えがわひでたつ)に砲術を学んだ竹田作郎(たけださくろう)などがつとめています。発掘調査で出土した遺物からは、食器や酒器・調理器具・筆記用具などの陶磁器や、薬さじ・キセルなどの金属製品、碁石など、幕末当時の武家の暮らしをうかがわせる資料が多く見つかっています。産地も日本各地におよび、当時日本海交易の北の終着点であった松前と、東回り(太平洋側)交易で栄えた函館という、二つの貿易港とのかかわりをもっていた戸切地陣屋ならではの特徴といえるでしょう。

 しかし、江戸幕府が倒れ明治政府に代わった1868年(明治元年)、蝦夷地に逃れてきた旧幕府軍と新政府軍の間で戦いが始まります(箱館戦争)。これを迎え撃つために陣屋守備隊も出陣しますが、大野村での戦いに敗れて他の新政府軍とともに久根別まで撤退します。陣屋はわずかな留守番兵を残し前線に孤立することとなり、このままでは守り切れないと判断、守備兵は自ら火をかけて城を捨てます。築城からわずか13年、戸切地陣屋跡はその歴史上の役割をここに終えたのでした。

 現在は、幕末時代の北方における日本と海外のかかわり、特に当時の西洋築城術の日本でのありかたを今に伝える重要な遺跡として国の史跡に指定されているほか、明治39年に植えられた並木をはじめとする、桜の名所として市民のみなさまに親しまれています。

松前藩戸切地陣屋ミニギャラリー
陣屋跡表門と桜並木 空から見た戸切地陣屋跡 戸切地陣屋防衛構造 戸切地陣屋防衛概念
陣屋跡表門と桜並木 空から見た戸切地陣屋跡 戸切地陣屋跡の防衛構造 戸切地陣屋防衛のしくみ

 

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0138-77-8811
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