=当別トラピスト修道院=
当別トラピスト修道院の歴史の幕開けが北海道、東北六県、新潟、福井の諸県を管轄していた函館教区の
長たるベルリオーズ司教によって始まったこと、および、その整備がフランソワ・プリエ(1859年〜1947年、
後に帰化して岡田普理衛)によるところ大なることは周知のとおりである。
そもそもトラピストとは、ローマ・カトリック教会内部の観想修道会のひとつであり、厳律シトー修道会の
修道士のことをいう。
また、シトー修道会とは、1098年にフランスのノルマンディーの荒野シトーに、聖ベネディクト(480年〜547年)
の戒律を守って、祈祷と労働とをもって直接、神に奉仕し、自己の成聖と社会の幸福のために祈る修道会の
ことである。シトー修道会はヨーロッパ各地における未開地の開拓、農業、畜産の発達に貢献したが、17世紀
後半に至る一時衰退したのを、ノルマンディーにあるトラップ修道院が改革を断行してその衰退を食い止めた。
このときのトラップの修道士、すなわちトラピストがシトー会士の代名詞となったのである。19世紀に至り、
再度の改革のなか、トラップ修道院を主体とする改革派が、厳律シトー修道会の名称をもって観想生活を強化
している。
それゆえ、トラピストとは、厳律シトー修道会の別名である。このシトー会は、早くから女子修道院である
トラピスチヌを設立している。
=通史=
(安政6年) |
1859年 |
11月14日、フランソワ・プリエがフランスのノルマンディーに出生。 |
明治29年 |
1896年 |
10月28日、修道院設立。茂別村に創立された当初の修道者はフランス人5名、オランダ人2名、カナダ人とイタリア人各1名の、都合9名であった。 |
明治30年 |
1897年 |
1月27日、上磯郡茂別村字石倉野番外地(現在の北斗市三ツ石392番地)の「燈台の聖母トラピスト修道院」にフランソワ・プリエが委任院長として赴任。 |
牛舎建設とともに七飯の園田牧場から本道産の乳牛数頭を求めて搾乳を始めたが期待通りにはいかなかった。 |
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明治31年 |
1898年 |
函館教区長ベルリオーズ司教が経営していた湯川女子トラピスト(トラピスチヌ)修道院の孤児たちを当別トラピストに引き取る形で孤児院開院。 |
明治33年 |
1900年 |
孤児院に併せ、私立野上尋常小学校を設立。貧困児童を収容して慈善および教育事業を創始。生徒は学園に起居させた。当時の生徒数は20〜23名程度。 |
8月30日、フランソワ・プリエは函館の岡田初太郎の養子として入籍し、翌34年に帰化、岡田普理衛と改名した。 |
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明治35年 |
1902年 |
オランダからホルスタイン種種牛1頭と乳牛4頭を購入し、畜産の経営に向けて始動。明治43年の財団法人設置の頃の飼育頭数は牡種牛2頭、牝牛48頭。 |
明治36年 |
1903年 |
3月29日、厨房より失火し、修道院木造本館一棟を全焼。これにより私立野上尋常小学校を閉鎖。 |
この年、製酪事業を開始。 |
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明治38年 |
1905年 |
木古内村の鈴木農場と契約し、その生産乳の供給を受けることとし、最初の牛乳購入出張所を木古内に設けた。 |
明治39年 |
1906年 |
大野村に牛乳購入出張所を設けたが、当時の運送状態が悪く、種々の困難が伴った。 |
明治40年 |
1907年 |
出張所にクリーム分離器を備え付け、そこで買い入れ生乳を分離し、クリームのみを修道院に送る方法をとる。 |
明治41年 |
1908年 |
煉瓦2階建本館を旧本館の跡地に落成。 |
新修道院落成とともに野上尋常小学校を再開したが、児童数が少なく、その後自然消滅となった。孤児の収容だけは引き続き行い、昭和5年まで存続した。 |
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明治45年 |
1912年 |
トラピストを財団法人化することの認定を受け、岡田普理衛は理事長に就任。 |
大正7年 |
1918年 |
当別の製酪工場を函館貿易株式会社に貸与。 |
大正9年 |
1920年 |
5月29日、詩人三木露風がトラピスト修道院に来院。 |
大正10年 |
1921年 |
トラピスト製酪工場が北海道煉乳株式会社に経営が移り同社の当別工場となる。 |
大正12年 |
1923年 |
8月15日、岡田普理衛は新田原修道院の旅立ちに先立って、松前千軒の地を訪れ、江戸時代の寛永16年(1639年)千軒岳で殉教した蝦夷キリシタンに対してミサを捧げた。岡田普理衛はこの地に、九州に出発するまで毎年のように足を運んだという。 |
大正13年 |
1924年 |
1月、「渡島半島の牧畜の恩人」ともいわれたオランダ人ジョアンが故国に帰った。ジョアンは岡田普理衛と同年の明治29年に修道院に来て、約30年近い年月を「祈祷と労働」に捧げた。 |
大正15年 |
1926年 |
岡田普理衛が当別トラピスト修道院の院長を辞し、修道者4名を伴い福岡県京都郡祓郷村字砦見1441番地に分院(その地が新田原と呼ばれていたのにちなんで新田原修道院と命名)を設立する目的で赴く。以後、同郷において開墾に専心。 |
昭和4年 |
1929年 |
北海道煉乳株式会社が北米の鷲印ミルクと合併して、社名も大日本乳製品株式会社(雪印乳業株式会社の前身)と変更。当別工場もその一工場に列する。 |
昭和7年 |
1932年 |
当別工場が大日本乳製品株式会社から独立。 |
昭和16年 |
1941年 |
トラピスト修道院に対する召集令状送付。トラピスト修道院にあってはこの赤紙召集を除ければ、宗教界における近代天皇制の推進、戦勝祈願という二大スローガンとは全く無縁の世界で、独自の「祈りと労働」の生活を営んでいたといって間違いない。 |
昭和19年 |
1944年 |
第二次大戦の戦時に巻き込まれて分院事業の継続中断を余儀なくされ、福岡の分院閉鎖。岡田普理衛、当別に引き上げる。 |
昭和22年 |
1947年 |
7月1日、岡田普理衛死去。享年88歳。 |
=修道士の養成=
創立当初外国人修道者9名で始まった修道院も、岡田普理衛が赴任した年に1名、その翌年に4名、明治35年
に3名という具合に、総勢17名を数えるまでになった。しかしその後まもなく、帰国した者6名、病死した者
2名と、再び元の9名に逆戻りする始末で、どうしても日本人修道者の養成が急務となった。
岡田普理衛の院長在職(1896年〜1926年)の30年間に、修道志願した日本人は全部で111名。そのうち祈祷
修道士志願者は57名、助修道士(俗に労働修士)は54名。退会した者は64名で、その内訳は祈祷修士38名、
助修士26名。岡田の在職中に実際に修道院に留まった者(成功者)は111名中36名であったので、成功率は
約32.4%ほどであった。
最初の邦人入会者、すなわち日本人入会第1号は、実は修道院創立の明治29年であったが、4か月足らずで
退会し、第1期(1896年〜1905年)の入会者は、長崎県以外の人たちであったという。
第2期(1906年〜1915年)の明治40年より長崎県出身者が現れ始め、以後年を追うごとに増えていった。
その長崎県出身者の入会者総数は69名(祈祷修道士34名、助修道士35名)であり、総入会者の60%強を占め
ていた。
長崎県以外の入会者総数は42名で、その出身別内訳は北海道8、宮城県8、新潟県4、東京府3、その他は
青森、岩手、茨城、神奈川、静岡、長野、三重、山梨、石川、大阪、岡山、広島、福岡、鹿児島が各1名、
不明5となっていた。
ちなみに祈祷修道士とは、原則的には司祭(神父)になるため、中等教育の学力を必要としていたが、当時、
旧制の尋常小学校卒業程度で入会してくる者が多かった。そのため一定程度の語学(ラテン語)能力の習得など
困難を伴うことも多く、どうしても祈祷修道士の成功率は低くならざるを得なかった。のちの大正9年に詩人
三木露風を文学の講師に招いたのも、その対策の現れであった。
=開拓および酪農業=
入植当初、函館区長から提供された未開地は約70町歩ほどであり、その開墾から鍬入れが始まった。労力は
9名の修道士では間に合わず、近隣の移住民、ことに庄内地方から木古内方面に移住していた数家族と、アイヌ
人を使用したという。明治43年の財団法人設立の時点では、土地の面積は150町歩余、そのうち耕地と牧草地
は47町余、原野98町余、山林2町余。
通史より酪農業の流れ
明治30年 |
1897年 |
牛舎建設とともに七飯の園田牧場から本道産の乳牛数頭を求めて搾乳を始めたが期待通りにはいかなかった。 |
明治35年 |
1902年 |
オランダからホルスタイン種種牛1頭と乳牛4頭を購入し、畜産の経営に向けて始動。明治43年の財団法人設置の頃の飼育頭数は牡種牛2頭、牝牛48頭。 |
明治36年 |
1903年 |
この年、製酪事業を開始。 |
明治38年 |
1905年 |
木古内村の鈴木農場と契約し、その生産乳の供給を受けることとし、最初の牛乳購入出張所を木古内に設けた。 |
明治39年 |
1906年 |
大野村に牛乳購入出張所を設けたが、当時の運送状態が悪く、種々の困難が伴った。 |
明治40年 |
1907年 |
出張所にクリーム分離器を備え付け、そこで買い入れ生乳を分離し、クリームのみを修道院に送る方法をとる。その後、茅部郡、山越郡の諸村15か所に分離器を設置したこともあり、札苅・釜谷・木古内・知内・大野・七飯・八雲・鹿部からもクリームが搬入されるようになった。 |
大正7年 |
1918年 |
当別の製酪工場を函館貿易株式会社に貸与。 |
大正10年 |
1921年 |
トラピスト製酪工場が北海道煉乳株式会社に経営が移り同社の当別工場となる。 |
昭和4年 |
1929年 |
北海道煉乳株式会社が北米の鷲印ミルクと合併して、社名も大日本乳製品株式会社(雪印乳業株式会社の前身)と変更。当別工場もその一工場に列する。 |
昭和7年 |
1932年 |
当別工場が大日本乳製品株式会社から独立。 |
年代とともにクリーム、牛乳集荷量も増え、バターの販売量も増加したが、この時期、日本人全体の食生活
事情から推してバター需要者は決して多くなく、したがって修道者を外国人の居住者が多い東京、横浜、神戸
に遣わせて注文をとり、販路の拡張を図らなければならなかった。
大正3年に勃発した第一次世界大戦においては一時期、食料としてのバターの需要も増え、当別修道院も戦争
景気に浴したが、それも長続きしなかった。それどころか、依然として国内バターの消費者が低迷したままなの
に加え、対戦による母国フランスからの援助が途絶したこともあり、製酪事業の経営はますます困難になって
いった。
大正時代のトラピスト修道院。現在は並木が成長し、これほど見通しは良くない。
北海道煉乳株式会社の傘下にあった昭和2〜3年の頃、当別工場の乳製品はどのようにして市場に送り出されて
いたのであろうか。その当時の宣伝として、こんなものがある。
「函館毎日新聞」(昭和3年5月24日)の宣伝文
「 御上京のお土産は 是非
トラピストバターを
何時も新しいのを詰める
トラピストの店
十字屋 」
これがトラピストバターに関する初めての宣伝広告であると思われる。
函館の北海道煉乳株式会社と十字屋の商品生産・販売ルートに乗り、トラピストバターは函館を足場としながら、
いよいよ全国へとその名が知れわたり始めることになった。