=北海道の水田発祥=

 

 北海道における稲作の起源については、3つの説がある。

 

1.寛文年間(1661-72年)説。

 『北海之殖産 第三拾七号(亀田郡亀田村近村米作概況)』亀田文亀田村字湯川通七番地、勸農協会通信

委員福島平次郎調査(明治267月発行)には、次のように記されている。

 

  寛文年間、文月及大野村の農家某に勸めて稲作を試みせしむ。之を当地方米作の嚆矢となす。

 

 寛文年間の最終年は寛文12年(1672年)で、これが大野町水田稲作の最も古い記録である。

ただし、作付面積ならびに収穫量はわからない。

 

2.貞享2年(1685年)説。

 『北海之殖産 第三拾七号(亀田・上磯郡地方米作概況)』亀田外三郡役所調査(明治267月発行)

には、次のように記されている。

 

  亀田・上磯両郡稲作は遠く貞享及天明年間に起り、爾来年を経るに隋ひ各地に創業者輩出し(中略)

 今各村に就き創業の年月及其人名を掲くる左の如し。

  文月村字押上 創業 貞享二年五月 段別 不詳

         創業者 高田吉右衛門

 

 また『北海道ノ米ニ関スル調査(大正十三年六月九日 北海道庁産業部)』には、次のように記されて

いる。

 

  貞享二年渡島國亀田郡文月村ニ於テ吉田吉右衛門ナル者水田若干ヲ開キシヲ以テ嚆矢トス。

 

 作付面積ならびに収穫量はわからない。

 

3.元禄5年(1692年)説。

 天明元年(1781年)に松前廣長が書いた『松前志 巻之六』には、次のように記されている。

 

   即チ粳米国俗是ヲウルゴメト云。古ヨリシテ我藩此物ナシ。国人他国産ニ因テ僅ニ性命ヲツナゲリ。

  昔時、元禄五年東部亀田ニテ作右衛門ト云者、新田ヲ試ミケレト二、三年ニシテ廃止シタリ。

 

 また、昭和24年(1949年)8月、道庁が大野町字村内(その昔文月村押上と呼ばれた地)に建立した

「北海道水田発祥之地」の石碑には、次のように記されている。

 

   水田発祥由来

  亀田郡大野村字文月押上のこの地に、元禄五年農民作右衛門なる者南部の野田村から移って、人々の定着は米にあるとして

 地を拓し、自然水により四百五十坪を開田し、産米十俵を収穫した。爾来、消長あったが、後「御上田」と称して現在に及んで

 いる。先人未踏の北辺に、今日道産米三百万石の基礎はかうして発祥したものである。

                                              渡島支庁長 岡 武夫 書

                                               昭和二十四年八月 建之

 

 この石碑は『松前史』の記述や明治時代までの様々な調査で調査員が聞き取ったものや、米に関する権威

者の記述などを元に、村民の伝承によって碑文ができている。

 現代の野田家の祖先作右衛門なる者がその昔、南部の野田村から移って来て水田稲作を試行錯誤しながら、

ようやく元禄5年(1692年)に450坪(約15アール)の水田から産米10俵を収穫した。

 つまり、米生産粗収益から米生産に要した費用を差し引いて所得が得られたということで、文月村での

水田稲作経営が成り立つことが立証されたということである。

 

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「北海道水田発祥之地」碑

 

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昭和11年『史蹟之渡島』の写真での御上田。

現在の地碑がある水田の中央に標柱が建てられている。

 

 

-その後の稲作-

 

 寛政10年(1798年)12月、蝦夷地取締御用掛任命。

 蝦夷地取締御用掛に任命された松平信濃守信明はじめ6人の役人が、寛政11年(1799年)、幕府に提出

した『寛政末蝦夷地要覧(寛政十一未己春蝦夷地御用之記)』に、「文月村試作田一町一反歩余」と記録を

残している。

 この報告書を提出する4年前の寛政7年(1795年)の作付面積が、1反という記録があり、わずかの期間

に他の面積が大きく増えていることがわかる。

 この報告書が寛政11年の春に提出されたことから、これらの田は幕僚時代になってから拡張されたもの

ではないことは明らかで、この後の幕府の手による大仕掛な試作の先駆けとなった。

 

 寛政11年(1799年)、大野会所設置。

主な役割は米の試作である。本陣の置かれた現在の大野小学校の敷地に建設された。

 

 寛政12年(1800年)、蝦夷地取締役御用掛の発案によって、平野の5か所で蝦夷地最初のコメの大試作

が行われ、大きな成果をあげた。

 蝦夷地でこれだけの米がとれたということは空前のことであり、これが大開田へと発展していった。

試作地とそれぞれの収量は表の通り。

 

戸切地村の内中ノ郷

16

一本木

20

千代田

105

文月

24

文月村の内稲生

72

237

   (『阿部家文書』)

 

 この成果を踏まえて文化2年(1805年)、箱館奉行と民間合わせて、およそ200町歩の新田開発を実現さ

せたことは、江戸をはじめ東北・北陸一帯に大きく響き渡り、蝦夷地での米作りに拍車がかかった。

 

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昭和11年『史蹟之渡島』の写真での御上田。

現在の地碑がある水田の中央に標柱が建てられている。

 

 文化4年(1807年)11月、平野の開田に功労があった羽太奉行がロシア政策に対する責任から職を免ぜ

られ、ついでよく文化5年(1808年)4月、戸川奉行も職を免ぜられた。この年、幕府の経営による稲作は

中止となった。松前奉行の支配期間は、文政4年(1821年)12月まで14年続いたが、もっぱら消極政策に

終始し、せっかく開いた田は荒地となってしまった。

 

 文政3年(1820年)の『北夷談』に「新田開発ありしに熟しがたく、永続なりがたく今は跡のみ残れり」

とある。

 

 嘉永3年(1850年)、高田万次郎父子、玄米24石(60俵)を収穫。

 大野で米がとれたという評判は、箱館や近郊の村に伝わり、そのあとの稲作ブームのきっかけとなった。

万次郎父子の取り組みは、幕府の指導奨励によるものでなく、2人の独自の努力によるだけに称賛に値する。

安政3年(1856年)には、田祖米として大野でとれた玄米71816合が松前藩に上納されている。

万次郎は開発地区などで開墾を続け、明治15年(1882年)までに田畑60町歩を開墾し、24戸の小作農民

を移住させている。

 


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