=植樹・植林=
=植林の地・文月=
蝦夷地で最も古い植林は七重や箱館で、前幕僚時代に行われていた。しかしここで植えられた苗は
地元の苗床で育った苗木ではなかった。
文月の植林は、時代は少し遅れたが、地元の成熟したスギの樹木から採取した種子を苗床に蒔いて、
これを植えて育てたところに特色がある。
「嘉永4年(1851年)、高田吉松が杉1万5,000本を植林した」と郷土史家・河野常吉の明治39年
(1906年)の調査報告に記されている。
=高田鉄三の略歴=
天保14年(1843年)、高田鉄三が高田吉松の長男として文月村字村内に生まれる。
嘉永4年(1851年)、高田吉松が隣村の濁川村の竹内由五郎から杉苗100本につき銭1貫200文
(1両に6貫800文替)をもって300本買い求め、これを植栽。
安政2年(1855年)、13歳のとき、濁川村の竹内由五郎から播種の方法を知る。
15、6歳の頃からは年5、6升の種子を収穫し、以来毎年、数百本の苗木を植林した。
当時の一般の人は植樹を迂遠の業とし、鉄三の行いを見て「彼の子は農業に努めず前途覚束なし」と
鉄三の行動を嘲り笑う者もいた。
鉄三の植えたものは生育がすこぶる良好であったので、ようやく植樹に心を傾ける者が生まれ、
明治6、7年以来、大野村・西村初蔵、本郷村・横山又左衛門をはじめ、植樹をする者がやや増加した。
次に鉄三は七重試験場から杉苗の下附を得て植栽した。その生育は在来の種に比べ良好だったという。
鉄三の植えた土地は皆官地であったが、明治12年地検発行の際になって所有権が確定して私有となる。
七重館業試験場においても植樹を奨励し、付近の人も皆その必要を認めて植樹をするようになった。
鉄三が安政2年(1855年)から大正4年(1915年)に至る61年間に植栽した樹数は60万本に達し、
うち杉は46万本に及んだ。
森林功労者である高田鉄三は名主、副戸長、村用係、村惣代、学務委員などを歴任、公共のためにも
貢献した。
大正2年、高田鉄三が大日本山林会から「山林会有功賞」授与される。
大正3年、地方林業発展の功績に対し、北海道庁長官から高田鉄三に木杯一組贈られる。
大正5年4月9日、病気のため74歳で高田鉄三没。
大正7年、北海道庁が開道50年記念祝典を挙げるにあたり、開拓功労者として大野村から高田万次郎、
藤田市五郎とともに、高田鉄三も選ばれている。
植樹1万本以上の造林者
氏 名 |
山林経営面積 |
植林開始年 |
植栽本数 |
備 考 |
高田吉松 |
24町8反 |
嘉永4年 |
スギ 1,000本 |
明治37年まで合計 30,500本 |
野田石松 |
10町 |
嘉永6年 |
スギ 1,000本 |
〃 |
高田鉄三 |
80町1反 |
安政5年 明治13年 明治19年 明治20年 |
スギ 500本 アカマツ 5,000本 カラマツ 3,000本 エゾマツ 100本 |
〃 238,100本 〃 5,000本 〃 39,600本 〃 100本 |
高田金太郎 |
26町1反 |
明治3年 明治26年 |
スギ 2,000本 カラマツ 8,000本 |
〃 67,500本 〃 8,000本 |
種田源蔵 |
不 詳 |
明治24年 |
スギ 7,000本 |
明治33年まで合計 70,000本 |
釣谷栄助 |
26町6反 |
明治28年 |
スギ 8,000本 |
明治37年まで合計 65,000本 |
中村長六 |
19町4反 |
明治35年 |
スギ 15,000本 |
〃 75,000本 |
大野村 |
23町8反 |
明治28年 |
スギ 5,500本 |
〃 80,400本 |
このほか、一戸当たり植樹本数1万本以下は、高田安右衛門他20余名で、植付本数は約20万本と
ますます造成の傾向にあった(『北海道林業会報(明治38年1月25日)』)。
高田鉄三
=林業のあゆみ=
-維新前-
嘉永4年(1851年) 文月村の高田吉松が亀田郡下湯川村より杉苗1,000本を購入して移植。
嘉永6年(1853年) 野田石松が亀田郡下湯川村より杉苗1,000本を購入して移植。
安政4年(1857年) 安政4~5年、本郷の三沢富太郎が自家培養したカツラの苗を8,550本植樹。
-箱館府・開拓使時代-
明治2年(1869年)7月8日、太政官直属で各省と同格の開拓使を置く。
この時代の植樹としては、
・安政年間までの文月村・函館付近の杉
・明治10年の北海道神宮の杉
・明治元年のプロシア人ガルトネルが七飯村に植樹したブナノキ、クリ、アカマツ、杉の混交林
などがあり、ガルトネルの植樹は母国の習慣を持ち込んだものと考えられる。以上のうち定着したものは、
文月村・函館を中心とする道南の杉と南海岸の暖かい地方の小局部にあるキリぐらいであった。
大野ではこの時代、二代目西川初蔵が自己培養の杉苗を中浜藤次郎、坂田市蔵、釣谷文吉、高田弥五右
衛門、西川力蔵、吉村長吉、藤谷吉太郎、菊池菊次郎らに各1,000本程度を分譲している。このほか苗床
のまま鈴木彦右衛門、中村金兵衛、西川万次郎に与えている。
-三県時代-
明治15年(1882年)2月8日、開拓使は廃止され、北海道を札幌・函館・根室の3県に区分して普通行
政事務をとることになる。山林事務は植民に関する事務とともに農商務省内・北海道事業管理局の主管に
移された。
明治15年10月、山林管理を3県に委任。
明治16年(1883年)2月、七重勧業試験場が農商務省北海道事業管理局に引き継がれ、七重農工事務所
となる。造林事業も順次盛んになり、明治16~17年頃、七重農工事務所では村民からの苗木の需要を満た
すだけの養苗ができなかった。
この時代、文月村の高田鉄三は杉苗4万1,000本を植樹している。また、三県一局時代に入っても新しい
外国樹種を試植していた。※「丸山養樹園」の樹種中には、カヌルパ・アカシヤ・ユリノキ・ヒッコー・ホネロツカシート・トネ
リコ・アメリカシロマツ・海岸松・ヒネキリマツ・オーストリアマツ・朝鮮五葉松・セコイヤ・スコツトマツ・米国長葉松・米国杉・米国
ヒノキなどがあり、多くの樹種の樹齢は3~4年で存在していた。
-北海道庁時代-
明治19年(1886年)1月、三県一局制を廃し、北海道庁設置。
明治21年(1888年)、道庁に林務課が新設。地方に18か所の林務課員派出所を新設。
明治23年(1890年)、防風林創設。
明治28年(1895年)、保安林調査。官林斫伐手続制定。
明治29年(1896年)、国有林未開地処分法公布。
この頃、大野村では、大野村小学校生徒樹栽規定を設け、毎年生徒に村の共有地へ植樹を行わせていた。
昭和8年(1933年)、村是制定。
山林については既成人口林地120町、今後20か年計画をもって100町歩の造林計画を立て、本年度より
実施し、既成人工造林中、昭和32年度に樹齢50年の杉、樹齢35年のカラマツ、樹齢30年の雑木を伐
期と定め、これを皆伐し得る人工造林面積80町歩、天然雑森415町歩、これから得られる見積価格
47万5,000円と現金積立金とを合わせ65万5,000円に達し、これの預金利子により昭和33年度より無
税村を実現する計画であったが、すでに制定前の昭和6年に満州事変が勃発しており、日本は戦争への
道を歩むこととなり木材は軍需用材としての供出を余儀なくされ、村是は頓挫した。戦争さえなければ、
この計画は必ず達成されていたといわれている。
=上磯地区での植樹=
明治12年の「民林書上帳」によると、函館県で2,000余の植樹が行われていた。上磯郡の正確な数字
は不明であるが、明治13年、落合第蔵が添山に扁柏300本を移植し、後年にも添山、富川大工川に杉、
欅、月桂、西洋林檎などを移植し林業に尽くした。
部分木仕付条例による植樹も盛んで、明治18年の郡村仕付人は上磯郡、茅部郡、亀田郡、山越郡で
28人あり、関係者は100人に達した(函館県山林-部分木植付樹木員調査票)。
明治16年6月、部分木の仕付けを行うために函館区、亀田郡、上磯郡在住者11名が北海道殖樹会社を
設立。
明治25年、上磯村の平民熊谷宇兵衛が、松杉苗数万本を移植した努力が認められ、緑綬勲章を授けら
れた。熊谷は明治27年に他界している。大正2年、林業功績で追賞。
七重浜では強風を防ぐために、明治13年、明治17年に、それぞれ1万本の松苗が植えられた。
明治30年代になると小学校でも植樹が行われた。
明治32年、茂辺地小学校では、高等科および尋常科第四学年の男性が杉苗1,000本を植えた。
上磯小学校では明治31年、明治32年、明治35年に合わせて3,500本の杉を植樹している。
茂辺地地区を中心に明治時代前半に植林された杉や松も、大正時代になると成長し、製材用として盛ん
に刈り倒されるようになった。杉やヒバは古くから知られていたが、人工林によってその生産額はさらに
高まることになった。
大正末期は関東大震災や火事の頻発などの影響もあるが、林業生産高が農業を上回っていた。セメント
会社を中心とする工業の生産高には及ばないものの、上磯にとって林業は重要産業であり、その中心とな
る素材が杉であった。また山林による収入が町予算の10%前後を占める状況は昭和30年頃まで続いてい
た。
古くから杉を北海道のどの地域よりも早く植林していた先人の功績も大きいが、この大正期にもこつこ
つと杉の植林は続けられていて、今日見る杉の光景は大正時代のものも少なくない。
恒産組
明治42年4月、川田龍吉が茂別村大字石別村当別に1,428町歩の山林を取得。
大正7年、川田は「恒産組」を設立。外国に様々な種苗を発注していて、オーストラリアからアカシナ、
ユーカリ、クワノキなどを、その他アメリカ、イギリスなどからも花の種子を輸入していた。昭和初期に
は杉の大造林地をつくろうとしたり、薪炭林を搬出したり、恒産組は名を恒産組殖産株式会社に変えたも
のの、順調で大規模な経営を行っていた。恒産組という名は戦後も恒産組殖産KK(川田吉也が代表取締役)
として残っている。
第一次世界大戦後の好景気と不景気の繰り返しは森林の売り喰い的な伐採をもたらし、上磯の山林は荒
廃した。世界恐慌後は助成金が交付され、道も保護政策をとるなどして乱伐防止と植林に努めた。
昭和5年、愛林植栽日を設定し、町や学校を挙げて国土緑化運動を展開した。また防風林に目を向けたの
もこの時期で、昭和8年、耕地防風林造成奨励規定が制定され、道南でも風の強い地域にしだいに定着し
ていく。
しかしこの植林ブームに水を差したのは、昭和9年、函館大火であった。函館の2万6,000戸余りの家
屋が焼失し、上磯の杉の需要が高まった。このころ建築用のみならず、電柱として杉が多く利用されたと
言われる。そのためますます山林の荒廃は進んだ。
昭和14年以降は、軍用材として北海道各地から運ばれていくことになり、過伐採はますます進むこと
になる。