中野通・中央地区

 

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桑園跡

 

 北斗市の養蚕は、安政年間に遡る。その伝統は副業的な形態ではあるが連綿として受け継がれてきまし

た。「上磯蚕業奨励会」(会長:落合源治郎)は大正末期から昭和初期にかけて、年間2万本の桑苗を育

成し、道南はもとより、空知・十勝・網走・小樽等本道一円に出荷しました。その一部は山形・茨城・岡

山県等本州の養蚕専業地まで取引きし、最遠隔地は朝鮮総督府にまで及びました。

 北海道帝国大学農学部、大日本蚕糸会北海道支会、北海道蚕業取締所と連携し指導を受け、国策の助成

で経営したが、昭和5年頃廃業しました。

桑苗を生産した桑園跡は昭和7年(1932年)町設グランドになりました。

 

平成233月 北斗市教育委員会

 

 

会津藩 太田藤蔵妻の墓

 

 安政6年(1859年)幕府は会津藩など東北6藩に蝦夷地を分領警備させました。会津藩の守備範囲は別

海~標津、網走~雄武まででした。万延元年(1860年)さらに幕府は北蝦夷地(樺太)の警備も会津・庄

内・仙台・秋田藩に命じています。

 会津藩の主力部隊は標津においたが、会津本国との中継地として戸切地(北斗市飯生)に陣屋を築き、

惣大将御奉行 海老名郡治、御勘定 服部忠右衛門・小沼勝五郎以下40名の勤番員を常駐させました。

 この「太田藤蔵妻の墓」と、領地巡検中に勇払で病没し高龍寺(函館市)に埋葬された「海津老中 田中

玄純墓」の2基が、戸切地における会津陣屋を物語る貴重な資料です。

この陣屋は現在の稲荷神社の場所です。

 

平成233月 北斗市教育委員会

 

 

上磯八幡宮

 

 上磯八幡宮は天文元年(1532年)、戸切地の氏神として創建されたといわれています。ここ八幡宮には

僧円空作観音像があります。円空は、寛永9年(1632年)美濃国(岐阜)に生まれ35才で渡道2年間滞在、

その後帰郷し元禄8年(1696年)に入没したといわれています。当神社の観音像は特に保存がよく「鉈作

り」の極意に達した充実期の作品のような荒々しさはみられず、細かいスジ彫りの冴えた「ノミ」のあと

を残した初期の作風です。(北斗市指定有形文化財 平成1821日指定)

 また、境内の狛犬には「文久3年(1863年)癸亥915日若者中」。手水鉢には「世話人 末吉 友次

郎 元治元年(1864年)甲子915日」「戸切地村 若者中」と刻まれています。「若者中」は夜回り、

警備、祭礼の奉仕、海難救助などを実践した青年男子の団体でした。明治11年(1878年)有川村と戸切地

村の両村合併と村名付与の願いを開拓使大書記官 時任為基に提出、翌12年に合併して「上磯村」が誕生

しました。

 これらは旧村名入りの造形物として貴重なものです。

 

平成2112月 北斗市教育委員会

 

 

石坂武兵衛一族の墓

 

 石坂武兵衛は八王子千人同心の一員として蝦夷地に勤務し、帰京後、再び幕府の箱館奉行調役下役とし

て、家族同伴で渡道し、大野・上磯(現北斗市)の開墾事業に従事した石坂武兵衛の父親(右)と妻(左)

の墓である。父 正武の碑陰には165文字による故事来歴が刻まれています。

 文化3年(1806年)4月に父、11月に妻、その1ケ月後に生まれたばかりの子がなくなり、10年後には

地域住民に機織りの技術指導を続けた母親も他界しています。極寒の任地で家族の大半を失い任務遂行し

た幕史の悲劇を物語るものです。

 なお、武兵衛本人は、次の任務で江戸湾警備のため富津(千葉県)に赴任し、文政11年(1828年)4

2661才で病没し、同所の石洞山不動院に葬されています。

 

平成233月 北斗市教育委員会

 

 

熊谷家住宅主屋

 

 江戸時代末期頃、上磯(現北斗市)の農林業の基礎を築いた熊谷宇兵衛が店舗兼住宅として建築しました。

主屋部分は、切り妻平入トタン葺く一部2階建。間口7間・奥行6間、奥には居間、台所が続いています。

玄関から間口2間、奥行5間の土間に面してミセ、客間があり、2階はミセの上部のみで、土間の天井には

天窓が設けられ、吹き上げで見事な木組の様式がわかります。

 平成5年、北海道南西沖地震で被害を受けたが、基本的な部分は往時の道南地方の町家形式をよく残して

いる重要な建物です。平成18327日、国登録有形文化財(建造物)に登録されました。

 

平成233月 北斗市教育委員会

 

 

種田家

 

 種田家は北斗市の旧家です。出処については慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦に破れた九州秋月家の庶

流、種田権頭胤直が有川村へ佐井村(南部)経由で渡道したといわれています。宗家は代々「有川大神宮」

の宮司を継ぎ、本家は種田金十郎(8代目)の代に名声を博し「渡島王」と呼ばれました。場所請負人の岡

田半兵衛から古平漁場の譲渡を受け、室蘭・小樽方面へも拡張し、戸切地陣屋の造営や箱館戦争等に松前藩

の会計方として深くかかわりました。分家(イリシメ)は種田徳兵衛が明治13年(1880年)家督を受け、

郡総代、村総代人として永年公職し古平方面での漁場を基盤に前浜でも鰯粕の製造をし、4代目幸右衛門は

警防団長や消防団長で町の安全を守り21年間も町会議員をつとめました。

 種田家は漁業ばかりでなく、農業・林業・産業を興し町の発展に貢献しました。

 

平成2112月 北斗市教育委員会

 

 

鎮座五百年祭碑

 

 有川大神宮は慶長2年(1597年)創建、寛文3年(1663年)修検万歳坊が再建し、享保12年(1727年)

種田藤宮が重ねて修理したと云われています。当市で最も古く有川(旧上磯)の総鎮守です。

 この碑は文中の応永という年号や難解な漢文であることから、有川大神宮の由来記とみられてきました。

建立年月日は明記されていないが、明治28年(1895年)の日清戦争の戦勝記念と21年毎に立て替える伊

勢神宮の遺風に倣った新殿落成記念で石碑が建立したようで、戦前は大きな砲弾が二つ碑前にありました。

 文撰は書家として有名な、函館控訴院長の西岡宣軒。宣軒は号で、名は逾明(すぎあき)、佐賀藩士出身

です。

 

平成233月 北斗市教育委員会

 

 

島津京子家住宅(旧福士邸)

 

 福士家三代目の長治郎が大正8年(1919年)、木造二階建和風建築住宅として、本州の宮大工によって

建てられました。本州産の木材を使用した屋根は瓦葺です。外観は当時、日本の各都市で資産家が建てた

御殿風の住宅と共通性があります。旧字名が「漬菜御殿」とか「福士御殿」と呼ばれました。その後入手

した島津家が家紋入りの瓦に葺き替え、外壁の修理や庭園を往事のまま復元したもので大正期の建築物を

知る上で貴重な建物です。

 昭和41年(1966年)上磯町公民館が建設されるまで、旧町長光沢とともに公民館として使用され町民の

文化に供したこともあります。

 平成19年(2007年)、「函館の歴史的風土を守る会」より保存建築物を対象にした「歴風文化賞」が贈

られました。

 

平成2112月 北斗市教育委員会

 


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