館野地区

 

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弘教院(鷲峰山)

 

 この周辺は松前藩時代より牛馬用の馬草場だったのです。草刈牧夫の宇野多作は、秋口を迎え家族と

共に仮小屋を建てて干草作りに精を出し、ようやく一段落し明日は里に降りようとしたその夜から不思

議な病におかされ、幾日か過ぎ病がなおり、明日は里に降りられるというときに今度は家族が同じよう

な病におかされました。方々の寺や神社にお参りし、病が治るよう念じて小屋に帰る道すがら、多作は

真っ白い衣をまとった弘法様の姿をみたのです。すると不思議なことに重い心が晴れ、小屋に帰ると家

族は元気になっていました。これは山の霊が自分を引き止め、ゆく道を教えてくれたことを悟り、ここ

に止まることを決心したとき、この地で見なれない一羽の鷲が、天を飛んでゆく姿を見ました。

 昭和22年頃に本堂が建てられ修検者道場(真言宗系)として開山したのです。

 

平成2112月 北斗市教育委員会

 

 

富川土塁跡(富川塁址)

 

 箱館戦争で新政府軍の反撃から五稜郭を守る矢不来台場と二股台場(旧大野)を結ぶ最重要防衛戦が

設けられました。

 富川土塁跡(塁址)は矢不来台場の後方の守備と陸路から来る新政府軍の遮断のため築造されました。

200メートルの二重の土塁をもつ堅固な陣地であったが背面の箱館湾に面しては無防備でした。

 明治2年(1979年)429日早朝、矢不来台場が艦砲射撃で陥落した時、守備隊は富川土塁に留まる

ことなく一気に有川・七重浜へ後退しました。

 一時青森へ避難していた新政府軍の清水谷公考総督は富川土塁跡に「有川会議所」(作戦司令部)を

移し、511日箱館総攻撃の作戦指揮をとったといわれています。

 明治以来、函館の工藤弥寿治がレンガ製造を始め、この一帯は「レンバ場」と呼ばれました。

 

平成233月 北斗市教育委員会

 

 

福山街道

 

 箱館(函館市)と福山(松前町)を結ぶ道を「福山街道」と呼びました。江戸時代の有川(現北斗市)

は、箱館から約4里の距離で、人馬引継所がおかれ、追分には茶屋が3軒あり食事や休憩地点として賑

わいました。

 松前藩の政策上、街道であっても架橋は許されず、渡船がおかれたが「有川の長橋」は許可されてい

ました。

 安政元年(1854年)戸切地・三谷・富川・三石・当別・釜谷に駅(後の駅逓)を開設して旅人に役立

てました。平坦な箱館から街道もいよいよ険しい峠・山道がはじまります。当時の交通は船便や馬が多

く利用されたが、旅人は山道を避け、好天の日は海浜の波打ち際を通行したようです。

 

平成233月 北斗市教育委員会

 


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