茂辺地地区

 

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葛登支稲荷神社の由来

 

 明治の中頃、上磯の網元山本多五右衛門が茂辺地の漁場を当別の葛登支沖に移した。昭和になって漁場

経営者が山善(屋号)高村善太郎に替わりました。高村は屋号を(ヤマゼン)といった。

 漁場を富山県出身の広浜貞次郎船頭にまかせた。貞次郎は新しい建網漁法を導入し大漁にわいた。信仰

心の厚い貞次郎が願主となり、茂辺地の磯谷雄次郎が船材で祠を建立し、魚場の安泰を祈願しました。

地元民は網元の屋号で「ヤマゼンの稲荷様」と呼んだが、長年無人状態ですっかり朽ち果てたのを哀しん

だ新地主の工藤忠孝が平成4年、上磯地方史研究会とたずさえ現在地に遷宮修復しました。毎年710日、

葛登支稲荷神社奉賛会により祭礼が挙行されています。

 また、三木露風の歌碑が建立されています。

 

平成233月 北斗市教育委員会

 

 

観音沢

 

 嘉吉3年(1443年)冬、下国安東太郎盛季、渡島のこの地矢不来に館を築き蝦夷の守りにつくとき、守

本尊として如意輪観音を祀る祠を建立し末永く信仰しました。この如意輪観音を祀ったことから「観音沢」

と呼ばれ、その祠を「慈眼寺」と呼び、さらに寺跡付近を「寺小路」という地名が残っています。後年、

松前大館に「慈眼寺」という寺があり、明和3年(1766年)に観音沢の寺が移転されたといわれています。

この慈眼寺は慶応元年(1865)火災により炎上し廃絶となりましたが、無事難を逃れた本尊如意輪観音は、

松前町の阿吽寺に移されたましたが、後年、遭難にあい不明となっています。また、この「観音沢」には

享保16年(1731年)建立の「大乗妙典一千部供養塔」があります。施主は松前藩の用人「新井田五郎左

衛門の妻」、願主は羽黒山で木喰律を修めた「是空」で、「天下太平・国家安全」を祈願した供養塔です。

 

平成2112月 北斗市教育委員会

 

 

茂別村道路元標

 

 茂別村道路元標は北海道廰が昭和7年(1932年)に設置したもので、渡島国茂別村大字茂辺地村茂辺地

27番地先の茂辺地村所有地(元:茂辺地4丁目416号)付近に設置されたものが、その後茂辺地駅付近

で見つかりこの地に移設したものです。

 道路元標は、道路の起点や終点、経過地を表示するための標識のことで、その位置は大正9324

1920年)北海道によって告示されました。道路元標は、道路の始まり「起点」と終わりを「終点」と呼び

ます。

 

平成2010月 北斗市教育委員会

 


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