■向野方面

 

 

 

 

 

大正サイロ

 

 大野町向野の道道上磯峠下線沿いにある鈴木牧場前に、大正9年(1920年)に造られたサイロがある。

 牧場主の鈴木欽太郎が27才の時に、桔梗の園田牧場でサイロ造りを学び、同年9月に自家用サイロの建

設に着手、10月末に完成した。

 高さ4メートルの櫓を組み、直径2メートル、深さ5メートルで、地下はセメントで周囲を固めている。

地上は川石を削り、円柱型にセメントで形を整えて、頂点はややドーム型のトンガリ帽子のような仕上げと

した。

 手動式のカッターで刻まれたデントコーンがサイロに保存され、6頭の牛は何とか春まで飼育することが

でき、この年以降、牛乳は増収されたという。

 近年はサイロを使用していないが、大正8年の創業当時から変わらない低温殺菌の牛乳は、根強い人気が

ある。平成14年(2002年)からは生乳を使用したソフトクリームも販売している。

 

平成158月 大野町教育委員会

 

 

土 塁

 

 明治3年(1870年)、開拓使は、大野村に養蚕所(のち養蚕場)を設け桑園を開いた。ここは開拓使長

官・黒田清隆の要請で、明治8年、酒田(旧庄内藩)の士族が開墾にあたったところであり、そのとき表門

のあった場所で、当時ここには大きな「とびら」が設けられ、これをはさんで土塁がつくられていた。

 この土塁は、山形の鶴岡藩士(旧庄内藩士)である榊原十兵衛、水野重敬ら65名が、明治85月から

9月下旬までかかって築造したもの。

 開拓使時代の桑園跡として名残をとどめている本道唯一の土塁となっている。

 

昭和561024日 北海道大野農業高等学校同窓会

 

 

 

 樹齢100年を越すこの2本の桧は、鈴木欽太郎氏によると、明治10年(1877年)前後に植栽されたもの

であるということである。

 当時桧は、養蚕場の境界と向野の鈴木・浜野両家のあたりに林地として植えられていたといわれ、徳川農

場になってから100本の桧を植えた記録が残されているが、いずれも伐採された。

 明治8年、大野桑園の開墾事業の時、養蚕場の境界線として周囲に植えられた貴重な記念樹であるが、戦

後の農地改革後、大半が伐採され、この桧2本が残されたもので、養蚕場時代の貴重な記念樹である。

 

昭和561024日 北海道大野農業高等学校同窓会

 

 

黒松並木

 

 明治8年(1875年)、養蚕場の土塁築造当時に植栽されたものであるといわれているが、風で倒れたり、

一部伐採、移植などで現在76本が残されている。

 また西側の若い松は、昭和36年(1961年)に同窓会事業として50本が植栽されたものである。並木の道

は、松前藩時代から寝の岱(二ノ岱)をのぼり、江差山道に通ずる旧道であったと記録に残されている。

 樹齢100年を越える黒松並木は、本道でも唯一のものであり、養蚕場の歴史を物語るものとして貴重な存

在である。

 

昭和561024日 北海道大野農業高等学校同窓会

 

 

桑の木

 

 明治3年(1870年)、開拓使が養蚕所養蚕所(のち養蚕場)を設け、30町歩余を開墾し桑園を開いた。

明治10年に群馬、山形の2県より桑苗64,000本を移植したと記録されている。

 明治21年、徳川農場になり、樹木の苗圃、野菜畑として耕作された。昭和16年(1941年)、本校(当時

は大野農業学校)が開校されたころは、山桑は自生していたが、当時の栽培された桑の木は残っていなかっ

た。

 数年前に、上磯町清川の西村バラ園の桑園跡に数本残っているのを知り、寄贈を受け、大野町向野・鈴木

造園のご協力で、この桑園跡地に移植した。

 養蚕場の歴史を後世に伝えるため、創立50周年記念事業として植樹したものである。

 

昭和561024日 北海道大野農業高等学校同窓会

 

 

杉並木

 

 この杉並木は、徳川農場時代に中村吉五郎氏が、鈴木増太郎氏とともに、明治22年(1889年)514

に植栽したものであるといわれている。

 本校(当時は大野農業学校)が昭和16年(1941年)に開校した際、土地とともに北海道庁に移管された

ものである。当時は、大野川の近くまで道路境に植えられていたが、昭和17年にその一部が伐採され、現

28本が学校財産として関係者の努力により残されたもの。

 先人の残された植林の跡をしのび、本道開拓当時を知る手がかりとなる貴重な樹木で、この杉を大切に

扱って後世に引継ぎたいものである。

 

昭和561024日 北海道大野農業高等学校同窓会

 

 

大野養蚕場跡

 

 向野の地には、自生している桑の木があったことから、この北海道でも養蚕をやれないかと、当時の開拓

使長官・黒田清隆は、判官・松本十郎に具体的に計画を立てさせ実行させたと伝えられている。

 明治3年(1870年)、養蚕事業は札幌の桑園とここ向野が選ばれた。面積は、ほぼ33ヘクタールで、

4年に始まったが、6年には業績が上がらず中止となった。

 明治8年、七重勧業試験場の属地として大野養蚕場が開設され継続された。同15年、開拓使が廃止となり、

明治19年以降、八雲の徳川義礼に払い下げられ、大野養蚕場として運営され、その後、徳川農場の名のもと

に農家の副業として昭和の初めまで細々と続けられた。関東方面に「蝦夷の花」というネーミングで出荷さ

れた。

 徳川農場は土塁と樹木で整然と区画され、330ヘクタールを擁していた。かつては大野町民の憩いの場、

あるいはグラウンドとして利用されたこともあった。現在は平坦部の大部分は、道立大野農業高等学校の敷

地になっている。また人々は徳川農場と呼んだり、桑園通りとも呼んだりしている。

 

平成128月 大野町教育委員会

 

 

大野農業高等学校

 

 大野農業高等学校は、地域の産業の発展と後継者養成の願いから、大野村の財産である山林の売却や村の

有力者の寄付金など、村民の協力によって昭和16年(1941年)に開校した。開校当初は農業科と林業科の

二つであったが、のちに農村家庭科などの科も増設されている。

 第二次世界大戦という非常事態のさなかの開校となり、昭和十八年には農村の稼動力不足から学徒勤労隊

が編成され、生徒らによる援農が繰り広げられた。昭和20年には滋賀県にまで赴いている。

 戦後の昭和23年に定時制課程が発足し、道南唯一の専門農業学校として、働きつつ学ぶ農業学徒のため広

く門戸を開放した。また、昭和340年代には多くの運動部が全道大会で優秀な成績を残し、駅伝や相撲、

バスケットボール、卓球は全国大会でも上位入賞を果たしている。

 現在は農業科、園芸科、生活科学科、食品科学科の四つの学科があり、農作業の機械化、環境問題への取

り組み、情報処理、バイオ技術、介護などの教科学習のほか、農業クラブの活動も活発である。

 

平成193月 北海道大野農業高等学校

               北斗市教育委員会

 

 

法亀寺のしだれ桜と小山内龍

 

 法亀寺は日蓮宗実行寺の末寺である。嘉永2年(1849年)、大野村東下町に法亀庵として建てられ、その

後、法亀寺に改称し、明治22年(1889年)、現在地に移転した。

 境内にある一本のしだれ桜は推定樹齢300年で、高さは12メートルくらい。垂れ下がった枝いっぱいに花

が咲く。これほど見事な桜は珍しいという。

  また、小山内龍(本名・澤田鉄三郎)は函館に生まれ、東京で漫画家、絵本作家として活躍した。「昆虫

放談」は名作である。昭和20年(1945年)、戦災に遭って本町に疎開し、翌年亡くなった。小山内龍は法

亀寺に眠っている。

 法亀庵の建立に尽力した中村金兵衛や大野小学校長・田中幸次郎の墓、果樹王と呼ばれた岡山峰吉の碑な

どがある。

 

平成1110月 大野町教育委員会

 

 

岡山峰吉の碑

 

 碑文は「岡山峰吉君は理想に近き実業家なり。君を失いしは大野村の一大損失にして、その誇りとする青

年の指導者を失いしなり」の一節から始まる。

 明治末期から大正中期にかけて、村民から「果樹王」と呼ばれた岡山峰吉は、明治4年(1871年)、茨城

県河内郡太田で生まれた。同317月、夕張、長沼を経て、単身大野へ移住している。峰吉の果樹園はかつ

て山田致人が果樹園を試みた地で、苗床十町歩、果樹園十町歩を経営し、りんご、なし、桜桃、ぶどうを栽

培、年産額一万円の収穫を得るまでに成功したことが碑文に記されている。

 その努力と大成功に村民から敬愛されたが、大正9年(1920年)3月、数え年50の春に他界した。石碑は

同年6月、峰吉の妻・蘭によって向野の道路沿いに建てられ、後に法亀寺に移された。碑文を書いた伊藤松

太郎は函館の教会の牧師で、峰吉は熱心なクリスチャンでもあった。

 短命で後継者のない、はかない果樹王であったが、法亀寺の峰吉の墓に刻まれた遺言と思われる「我は復

活也生命なり」という句から、世俗を達観した人であった。

 

平成183月 北斗市教育委員会

 

 

八郎沼公園

 

 八郎沼の起こりは、弘化3年(1846年)伊予国(現愛媛県)生まれの山田致人が、明治13年(1880年)

に向野の観音山で酪農を始めたことにある。乳牛頭数5頭、うち4頭は雌であったという。致人が牛に水を

飲ませるために池を掘って水を貯えたもので、それが水田の用水ともなった。

 後年、中村長八郎氏が修築し、養鯉場や水田かんがい用のために造ったのがこの沼であり、長八郎の名前

にちなんで「八郎沼」と名付けられたといわれている。昭和50年(1975年)ごろから、町が公園用地とし

て総合公園をめざして整備に着手し、現在では「八郎沼公園」として、近郊の市町村や多くの町民に広く親

しまれ、憩いの場に利用されている。

 

平成26月 大野町教育委員会

 

 

八郎沼公園の由来

 

 八郎沼のおこりは、明治13年(1880年)ごろ、山田致人(現愛媛県生まれ)が、隣接する向野の観音山

付近で乳牛5頭を飼育したことに始まるといわれ、致人は牛に水を飲ませるためにこの地に池を掘り水を貯

えたものであったが、その後、中村長八郎が水田かんがい用の水源確保と養鯉場として修築したものが今日

の沼の原形となり、地元村民は名付けて「八郎沼」と称した。また、公園は昭和50年(1975年)から大野

町が構想を樹て総合公園をめざして各種施設を整備し、今では町の内外から親しまれ憩の場として利用度が

高まっている。

 

大野町教育委員会

大野町観光協会

 

 

観音山

 

 観音山は向野279-1に位置する標高144.4メートルの山である。観音山の名称の由来は、馬頭観音をま

つったことにはじまるといわれており、郷土の馬頭観音の中で一番古いものであるといわれている。

 光明寺に残る古文書によると、この山を大野・市渡・文月の三村が放牧場として貸し付けを受けた歴史は

古く、文化年間(180418年)ごろと解される。放牧の馬に対し熊による被害が多く、熊から馬を守るため

に馬頭観音をまつったのが観音山の歴史の始まりで、明治以後は、村の人々の和楽の場ともなって親しまれ

ている。この地より大野平野を一望することができ、大変風光明媚な場所である。

 

平成35月 大野町教育委員会

 


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