■文月・村内方面
文月村
地名は「船着き」が転訛したものといわれ、海を渡った先住民がここに船をつけたという。文月神社の杉
は300年以上は経っており、村の成り立ちは古い。
天明元年(1781年)には「文月梨美味」と『松前志』の中で賞賛している。このころ「文月戸数三十弱、
人口百余」と記録にある。
庚申塚の建立は文化9年(1812年)で、13人の名が刻まれ、うち6人が高田姓である。元禄5年
(1692年)、野田作右衛門が450坪を墾田し、10俵の米を収穫したという『松前志』の記録と村人の伝承
により、「北海道水田発祥の地」の石碑が建っている。文化2年(1805年)には、箱館奉行が50町歩の水
田を開いた。
文月稲荷神社は第10代松前藩主・章広公が白狐稲荷として崇敬した神社で、その由来や俳句が記された
貴重な額がある。区域は現在の文月、村内の2つの字である
平成15年8月 大野町教育委員会
文月稲荷神社
文月稲荷神社の勧請年は定かでないが、元禄5年(1692年)に南部野田村から来た作右衛門がこの地で米
を収穫した事実や、境内にある杉の巨木が樹齢300年以上と推定されることから、勧請はそのころではない
かと思われる。祭神は倉稲魂命で、例大祭は8月26日である。
松前藩10代藩主章広が文政6年(1823年)に再建を命じた記録があり、同年に自ら揮毫した「正一位文
月白狐稲荷大明神」の社号額や再建の由来を記録した由来額、完成を祝った俳句額が納められ、市の指定文
化財となっている。
また文政7年に紀州紀伊国本宮の神官が松前、箱館へ渡来した形跡があり、文月の先祖の人々は社格の認
定と本宮の権威ある神官に拝んでもらおうと、神官を呼び寄せたと見られ、同年4月27日付の社格認定書が
残されている。
松前藩主は徳川幕府直轄時代から有珠の善光寺に将軍家の供進使として代参し、その途中、休憩を兼ねて
文月神社に参詣した。文月には藩主がしばしば鷹狩りにも訪れており、文月の白狐稲荷、湊(旧銭亀沢村)
の石倉稲荷、江差笹山の直満稲荷は、松前藩下の三代稲荷と称された。
平成18年3月 北斗市教育委員会
文月神社の杉記念保護樹木
所在地 亀田郡大野町字文月116
樹種 スギ 樹径 150㎝ 樹高 27m
推定樹齢 340年余 所有者 文月神社
大野町文月の開拓を見守った木として、また、地域の教育や住民のやすらぎのシンボルとして親しまれ、
今日まで大切に守られてきた。
昭和47年3月25日指定 北海道
文月神社環境緑地保護地区
この地区は、スギ・アカマツ等の大径木が生育する面積742平方メートルの境内林である。
地区内には、開拓の歴史を物語る推定樹齢320余年のスギの大径木があり、昭和47年3月に道条例に基づ
く記念保護樹木に指定されているなど、市街地周辺の環境緑地として維持することが必要な樹林地として、
住民に親しまれている。
昭和63年5月26日指定 北海道
文月神社内不動尊
文月神社境内の東側にある祠の中に石像の不動尊が安置されている。不動尊は、台座から焔まで68cmで
身長47cmの座像である。天保9年(1838年)に不動院が奉ったもので、村内安全、五穀成就、諸難消滅を
不動明王に祈願したと刻んでいる。そのわきに長さ45cmの不動の剣が納められていて、明治29年(1896年)
の旧正月に、文月村・高田辰三郎が願主となっている。
この不動明王は、大日如来の変身である。だから悟りを開いた完全な仏陀であるため悪を粉砕する怒りの
相をし、働きやすい奴隷の形をしている。不動尊信仰は貴族から武士、町民へと移ったが、文月にもこの信
仰が伝えられ、加護を願った歴史を物語るものとして、大切な遺産である。
昭和62年8月 大野町教育委員会
大野小学校文月分校跡
北海道水田発祥の地の文月にある大野小学校文月分校は、平成11年(1999年)3月、長い伝統と歴史に幕
を閉じた。この学び舎を修了した児童は1,430余名に及んだ。
沿革史に「明治11年(1878年)2月、大野小学校が開校されたが、通学途中大野川が横たわり春秋の増水
期には橋を渡るのが危険な上、冬期の吹雪などで特に幼少の児童の通学には困難を極めた。そのため、文月
村に学校を設立しようと有志者たちの強い運動となり、遂に明治13年7月に文月学校の名で開校になった」
と残されている。
その後、明治33年4月、大野小学校の分校となり、文月分校と称した。
幾多の変遷を経ながら地域の子供たちを育て、地域の中心としての役割をはたしてきた住民一体の学校で
あった。
平成13年10月 大野町教育委員会
文月地蔵堂
文月地蔵堂の創立年は不詳だが、大正3年(1914年)編纂の『大野村史』によると、明治8年(1875年)
4月、有志の寄付にて21坪の木造茅葺きの堂宇を建築。同30年には7坪を増築し、留守僧も常置していた。
本尊は地蔵尊、釈迦如来、阿弥陀如来で、上磯町清川の禅寺から如来像を譲り受け、禅宗と浄土宗の合同
形式をとったという。今は留守僧もいないが、墓地だけは寺の土地として管理されている。
北海道水田発祥の地である文月地区には、この地蔵にまつわる奇妙な雨乞いの話が伝えられている。
日照りが続き、手の限りをつくしたが効き目がなく、ある日、村の名主の発案で、地蔵様を川へ担いで
いって水浴びをさせることにした。翌朝、函館山の方に黒い雲が見えたかと思うと、みるみるうちに雲が広
がり、大粒の雨が降り始めた。雨は一昼夜降り続き、翌日カラリと晴れた。
村の人々は涙を流さんばかりに喜び、さっそく地蔵様を川から揚げて元の所に納め、お礼を言った。その
後、地蔵様は何度も川に入れられたという。
平成16年11月吉日 大野町教育委員会
文月の庚申塚
文化9年(1812年)建立。文字が摩滅しかけているが、碑面には頭取13人の名前が刻まれており、これ
が文月の人名を記した最古のものであり、大野では本郷の庚申塚に次いで2番目に古いものとされている。
ここは昔、文月の村はずれにあったことがうかがわれ、かたわらの巨木と塚は、文化年代以降の古さをき
そうものであり、ここにまつられていた猿田彦神社が明治11年(1878年)に移っているので、塚、基礎と
もに建て直したものらしい。頭取格に名のある高田吉右衛門については、貞享2年(1685年)に米の試作を
したという吉右衛門の子孫であるとされている。
平成5年9月 大野町教育委員会
北海道水田発祥の地碑
蝦夷地の米作りには、寛文年間(1661~71年)、貞享2年(1685年)、元禄5年(1692年)の記録があ
る。水田発祥の地碑は、元禄5年の『松前志』の記録と村民の伝承によって昭和24年(1949年)に建てら
れた。
碑文には「押上(文月村)のこの地に元禄五年農民作右衛門なる者南部の野田村から移って、人々の定
着は米にあるとしてこの地を拓し、四百五十坪(約15アール)を開田し、産米十俵(現在の2俵程度)を
収穫した」と記されている。現在の道産米の基礎はこうして発祥した。
作右衛門の水田は2、3年で廃止され、その後も稲作は失敗と成功を繰り返し、文化2年(1805年)には
箱館奉行が大規模な水田開発を行ったが、長くは続かなかった。
嘉永3年(1850年)、大野村の高田松五郎・万次郎親子が苦心の末、米の収穫に成功すると、近隣の村々
にも広がり、安政元年(1854)以降、米作りはようやく安定した。明治6年(1873年)になって、島松
(現北広島市)の中山久蔵がこの地の品種「赤毛」で寒冷地稲作に成功し、米作りは全道各地に広がったの
である。
平成18年3月 北斗市教育委員会
小高神社と道祖神
戦後、樺太引揚者の人々は、かつて文月の「舟上」と称した開拓地に入植したが、苦労の末に手に入れた
馬が相次いで熊の被害に遭った。
そのため昔から馬の産地として知られていた福島県相馬地方の小高神社にあやって、昭和25年(1950年)、
馬を守ってもらおうと建てたのが文月の小高神社であり、馬頭観音が祭神となっている。
昭和44年、この付近から掘り起こされた三柱の道祖神が境内に安置された。表面には模様とも文字ともつ
かないものが刻まれ、何を意味するのかは不明である。かつては祠の中にまつられていたが、風雪のため姿
を消し、山上から運ばれてきた土砂に埋没したと伝えられる。
道祖神は旅の安全祈願の神で、村境や峠の上に建て悪霊をさえぎるものとされた。後に男女交歓の場とも
なったことから、縁結びの神、子授けの神として崇拝されている。
この辺りは松前藩の鷹場だった姉弟山へ通ずる所で、松前藩主も鷹狩りによく通った道であったため、こ
の地に道祖神がまつられたとも考えられている。
平成18年3月 北斗市教育委員会