■一本木・千代田・清水川・南大野方面

 

 

 

 

 

一本木村

 

 一本木の地名の由来について、文化6年(1809年)の『蝦夷渡海記』(作者不明)には「原中にタモキの

大樹一本あり字とす…」と記されている。

 これとは別の大樹は昭和29年(1954年)の15号台風によって倒れたが、その後に根元から芽吹いた2

目のタモも、すでに大樹への風格を見せている。

 一本木の開村は川村新左衛門が、文化3年に箱館会所の許可を受け、岩手県八戸より農家10戸を募集して

開墾を始めたとするのがほぼ定説であるが、それ以前から人が居住していたという説もある。

 いずれにしても久根別川、大野川の河口に近いこと、箱館との水運の最短距離にあることを考えれば、開

村当時の一本木の賑わいは、現在の我々の想像以上のものだったと思われる。区域は現在の一本木、萩野の

2つの字である。

 

平成158月 大野町教育委員会

 

 

一本木地名由来の木

 

 一本木村地名の起こりは、この地にあったアカダモ(ハルニレ)の大木から名付けられたものである。

このことは、寛政3年(1791年)、この地を通った菅江真澄の旅行記にも記されている。

 このアカダモは、昭和29年(1954年)の台風15号で倒れたが、その根元にあった稚樹は、その後、成長

して往年の大樹を継ぐべく風格を見せている。

 

大 野 町

 

 

一本木稲荷神社

 

 一本木稲荷神社は、『蝦夷実地検考録』によれば、八郎大明神と稲荷神が合祀されている。八郎大明神の

祭神・大巳貴命は、おおくにぬしのみことの別名であり、国土経営の神様である。少彦名命は、国土経営の

任にあたり医療まじないの法をはじめた神ということになっている。稲荷社の祭神・保食命と倉稲魂命につ

いては、どちらも穀物をつかさどる神で、開拓を進める一本木村にふさわしい神々である。

 一本木の神社は稲荷神社だけでなく、八郎大明神というものもあったので、検考録には2つ並べて書かれ

てある。2つということはもともと2つのおやしろが別々にあったのか、1つのおやしろに八郎大明神と稲荷

社があったか。いずれにしても寛政中(17891800年)勧請とあることからみて、はじめから社を2つわけ

て建てたとは思われず、1つの社に合祀したものと考えられる。

 また、平成68月に以前の鳥居が老朽化したうえ、神社前の道道大野上磯線の改良工事に鳥居の一部が

かかったため、氏子らの寄付で建てられた。

 

平成712月 大野町教育委員会

 

 

地域に根ざした人々と下山家

 

 ここ一本木という地名の起こりは、一本のアカダモの大木から名付けられたものである。一本木はかつて、

松前藩時代から蝦夷地の陸路の交通の要所として栄えて来た地域でもあった。また、政治・経済・文化にも

大きく関わってきたその街道が、かつて往年に当地の村の形成に大きく関わった有志・下山貞吉ほか19

衆が力を合わせ今日の開墾及び開拓の礎となった。

 下山家の初代・孫四郎は文久年間(186163年)、青森県大巻村から一本木へ移住し、一本木の村用係を

していた。村用係は開拓時代の村々の重責を担っている地位であり、孫四郎は当村には重要な中心的人物

だった。下山家は彼をはじめ代々地域の発展のために村の村会議員など要職を歴任し、活躍した家柄でも

あった。

 また、一本木地域は古くから米作りが盛んな所でもあり、早くから久根別川あるいは大沼の導水をいち早

く着手した地域でもあった。

 平成時代に入りこの道も交通量が著しく多くなり、古い道幅を拡張せざるを得なくなった。そこで下山家

には道道756号・大野上磯線の拡張工事を行った際、事業の推進に多大なる貢献をしていただき、今日の道

路の完成をみた。

 また、地域町内会の人々はもちろんのこと、各関係機関のご協力とご指導ご支援のもとに完成した。ここ

に多くの方々に深く感謝して、この偉業を永く後世に伝えていきたいと思う。

 

平成122月吉日 一本木町内会

 

 

北海道指定史跡 開拓使三角測量一本木基点

 

 この標石は明治8年(1875年)、開拓使が正確な北海道地図を作成するため、亀田郡亀田村と一本木村の

間を三角測量の基線とし、その両端に設置したものの一つである。

 開拓使は明治6年、米人ワッソンを測量長に三角測量事業を開始、勇払と鵡川間に勇払基線を設定した。

7年から米人デイが測量を行ったが、デイは勇払基線を検証するため荒井郁之助と函館付近を調査し、

8年、亀田と一本木間を助基線と定め基点に標石を建てた。翌9年の精密な測量で、この間の測定値は

2115234分(7,990.819m)とされている。

 北海道の三角測量事業は我が国における本格的な三角測量の先駆をなしたもので、この標石は日本の測量

史上、極めて重要な意義を持つ。標石の下には函館測候所の創設者・福士成豊の名が刻まれた基石が埋めら

れている。

平成16922日指定 北海道教育委員会

 北斗市教育委員会

 

平成1721日 函館測量設計業協会 寄贈

 

 

島川小学校

 

 「未来を託す子供たちにまず教育を」という先人の教育にかける願いが実を結び、明治14年(1881年)

に大野小学校の分校として一本木分校が、翌年には千代田分校がそれぞれ一本木、千代田の両村に設立され

た。

 しかし、開校した両分校は共に狭く設備も不十分で、試験などのたびに本校へ通学するには相当の困難を

極めた。そのため両村の有志が奔走し、明治18年、両分校を統合して「島川小学校」が誕生した。

 開校当初の校舎は千代田村東前谷地19番地(千代田神社付近)に建てられた。「島川」の校名は、千代

田村を開発に尽力した米沢藩士・島津才兵衛と、一本木村を開発した河内屋・川村新左衛門の二人の功労者

にちなんで、それぞれの頭文字をとったものである。

 校門前の松の木は、川村新左衛門が開校時に植え、明治32年の校舎移転の際に移植された。この木は島

川小学校とともに歩み、これからも子供たちを見守っていくであろう。現在の校舎は昭和53年(1978年)

の建設で、平成6年(1994年)には新グラウンドが完成した。

 

平成183月 北斗市教育委員会

 

 

千代田村

 

 千代田の由来は、鶴の飛来が多かったことに起因する「鶴田=千代田」説と、寛政12年(1800年)、

幕府の命によってつくられたお上田から、初めての収穫米を千代田城に送ったことからという2つがあるが、

2説とも確証がない。

 開村は、大野村史や『蝦夷実地検考録』にある千代田稲荷神社勧請の記録から、文化元年(1804年)渡来

し、同2年に小屋を建て、翌3年に南部八戸より農家12戸を募集して開墾を始めた島津才兵衛としており、

箱館会所の記録などからも証明されている。

 ただし、文化2年には、伊達林右衛門も同地で新田を耕し、「伊達郷と称せり」と『伊達文書』にあるが、

正確な場所などはわかっていない。

 はじめ千代田郷と呼ばれていたが、明治6年(1873年)に千代田村となり、伊達郷も併合した。区域は現

在の千代田、東前の2つの字である。

 

平成158月 大野町教育委員会

 

 

千代田稲荷神社と藤田翁頌徳碑

 

 千代田稲荷神社は、寛政6年(1793年)に勧請されたもので祭神は、倉稲魂命である。明治9年(1876年)

に村社となる。杉の木立が主となって鎮守の森を造っており、祭典は毎年825日に行われている。

 境内に藤田市五郎翁の碑がある。翁は慶応元年(1865年)、千代田西川原で生まれ、幼少時、米沢藩の漢

学者・松本新平の門下生として学問を志した。温厚な人柄で多くの公職につき、住民の信望も厚く、開拓精

神に富み、農業発展の基礎づくりに励んだとされている。

 20歳の時、札幌農業学校長・佐藤昌介博士の紹介で、東大農学部での西洋野菜栽培の勉強のために上京し

た。明治44年(1911年)、ケチャップの製法に取り組み、大正11年(1922年)には、南鷹次郎、星野勇三

博士の学説を取り入れて温室をつくり、トマト、ニンジン、サンショウを栽培した。昭和6年(1931年)に

は、ピューレー(ケチャップの原料)の製造に成功し、年間25,000本(ビール瓶相当)を生産し、函館五島

軒ホテルと契約して納入した。

 石碑の碑文は南鷹次郎(北農会長・北大学長)で、筆は、北海道長官・沢田牛磨によるものである。                              

 

平成26月 大野町教育委員会

 

 

藤田翁頌徳碑

 

(碑文の解説)

藤田市五郎翁は、慶応元年(1865年)、大野村に生まれた。生来、温厚篤実で、志操堅固、事に当たり労を

いとわず、長じて公職に就くや、村民の信頼も篤かった。

 明治の半ば、大野村の開拓は、まだ成果を挙げず、人々は困窮していた。翁は、この打開のため万難を排

し、明治28年(1895年)から翌年にかけて、溝を掘り、水田を開き、野菜、果物の栽培、馬匹の繁殖等、

農事に関わる指導の役割を果たし、その功績は、枚挙にいとまがなく、度々善行功績を賞されたことにおい

ても知られる。

 この碑は、翁が六十歳をこえ、なお壮者の如きとき、村民有志が相い謀り、翁の偉業を後世に伝えようと

したものである。

 

 

千代田巡査駐在所跡

 

 千代田巡査駐在所は、明治37年(1904年)510日、千代田村有志の寄付により、千代田稲荷神社の境

内に設置された。記録によると「初代の駐在巡査は石原貞助なり」とある。

 設置当初は七飯警察署の所属であったが、明治40年、同署の廃止によって大野警察分署の所管となり、

昭和23年(1948年)には警察機構改革で函館地区警察署所属となった。

 担当区域は大野村字千代田、一本木、萩野、東前、清水川、南大野、文月、上磯村字追分、七飯村字豊田

3村にわたり、明治から昭和にいたる50数年間、北海道警察の発足で、昭和30年代に大野警察官派出所

に統合、廃止されるまで、地域住民の安全確保と函館や道央各地を結ぶ人馬の往来、物流などに大きな役割

を果たした。

 昭和に入ると、住民の駐在所に寄せる期待と信頼も大きくなり、負担も大きくなった。戦後は駐在所と地

域住民との結びつきはさらに深まり、地域の行事や婚礼などにはよく駐在さんの姿を見かけたものである。

 

平成1611月 大野町教育委員会

 

 

千 代 田

 

 千代田の開村は『大野村史』や『蝦夷実地検考録』にある千代田稲荷神社勧請の記録から、寛政年間

17891800年)と推定され、藤田家の記録にも「先祖藤田八五郎は、陸奥国軽米郡軽米村に生る。寛政元

年本道へ渡り、本村に居住をぼくす」とある。

 文化2年(1805年)、大野平野一帯で幕府直轄による大開田が行われると、千代田でも文化元年に渡来し

た島津才兵衛が、同3年に南部八戸より農家12戸を募集して開墾している。また、文化2年には松前の富商

・伊達林右衛門も同地で新田を耕し「伊達村ト唱フ后之ヲ千代田村ト改称ス」と『伊達家文書』にあるが、

正確な場所はわかっていない。

 千代田の言い伝えに鶴の飛来が多かったので、鶴田と称したとあるが、『蝦夷実地検考録』の記述から、

江戸の千代田村にあやかって後の繁栄を願い、千代田と称するようになったと推定できる。寛政12

1800年)に幕府が米の試作を行った際に千代田という地名を使用しており、同年、蝦夷地を実測した伊能

忠敬の地図にも千代田と記されている。

 はじめ千代田郷と呼ばれ、明治6年(1873年)に千代田村となった。同13年、大野ほか五か村の戸長役

場が大野村に設置され、同33年に大野村に統一。全道から大野村ほか15か町村が一級町村に選ばれ、千代

田村は「大野村大字千代田」となる。道道大野上磯線の旧道を境に、西側を西川原、東側を東前谷地と呼び、

ほかにも西川原通、川向ドドメキ、東前谷地通の五つの字があったが、昭和7年(1932年)の字改正で千

代田、東前の二字となった。昭和32年に大野は町制を施行し、平成18年(2006年)21日、上磯町との

合併によって北斗市となる。

 

 

千代田の忠魂碑と庚申塚

 

 千代田と一本木の境にあたるこの地に「忠魂碑」「庚申塔」と刻まれた二つの石碑がある。

 忠魂碑には「明治四十四年(1911年)三月十日建立 日露戦役戦死者 奉天旅順戦没 陸軍特務曹長 

勲七等功七級 藤田弥三郎 建立 千代田在郷軍人」と刻まれている。

 明治27年(1894年)の日清戦争の戦死者は17,000人を数え、同3738年の日露戦争でも日本は旅順攻

撃、奉天会戦、日本海海戦などで勝利を収めたが、戦死者は118,000人に上り、特に奉天、旅順での戦いは

熾烈を極めた。

 日露戦争後、時の西園寺内閣は、全国民の意識鼓舞と団結融和、戦死者の鎮魂を目的に、全国市町村に忠

魂碑の建立を指示、千代田の忠魂碑もその時に建てられたものである。建立以来、825日の千代田稲荷

神社祭典で、神事の前に碑前で祈年祭が行われている。

 庚申塚は本郷、市渡、文月、千代田にあり、本郷が寛政8年(1796年)建立で一番古く、二番目は文月の

文化9年(1812年)、千代田は嘉永3年(1850年)である。

 庚申は干支の60日または60年ごとに巡ってくる「庚申」のことで、信仰は中国の道教に始まったといわ

れる。人間には三つの悪い癖があり、これを三匹の虫にたとえ、この癖を改めさせるため「更新」とかけて

庚申の日を謹慎日とした。三虫は体の中に住み、庚申の夜、寝ている間に抜け出して天帝(帝釈天)に罪を

告げ、命を短くされるので、庚申の夜は虫が出ないように眠らずに慎んだという。奈良時代に日本に伝わ

り、室町以降、通行の安全や五穀豊穣、悪病退散など、ご利益や庶民の願いに変わると、江戸時代には村は

ずれや辻に塔を建てることが盛んになった。神道では申と猿を結びつけて猿田彦をまつる。

 この場所は奥地(道央)へ往来する役人や探検家も通過した道で、道中の安全と村に災いが入らないこと

を祈願したものと考えられる。碑面には「庚申塔 嘉永三年八月、名主 島津才太郎、大和屋○○、吉田弥

四郎、藤田八五郎、安藤重吉、金濱丹治」とあり、名主以下の三役と千代田の重立人の名が彫られている。

町人、百姓に苗字が許されなかった時代に、はっきりと姓名をつけているというのも見事な心意気といえる。

 基礎は昭和30年(1955年)に修理されたが、碑石は嘉永3年のままで、平成16年(2004年)8月、千代

田の人たちは忠魂碑の基礎改修にあわせて、庚申塚の基礎も補修した。

 

平成178月 千代田町内会

 

 

清水川稲荷神社

 

 清水川の開祖の一人・東山熊五郎は、文政10年(1827年)、岩手県二戸郡小友村に生まれ、万延元年

1860年)に大野村の清水川に定住した。熊五郎は馬好きな一面、敬神の念に厚く、清水川稲荷神社の御神

体は、熊五郎が持ってきて、守護神として祀られたという。

 熊五郎の清水川入植は明治維新前であり、清水川稲荷神社の勧請年代も同年代とされている。また、境内

が狭いのは水田地帯の特色であり、清水川の東側一帯は箱館の高龍寺の水田となっていた。現在の清水川か

ら千代田に向かう清水川道路・用水路は、水田造りに際してのものといわれている。今日は氏子たちにより

維持されている。

 例祭は91日に行われている。

 

平成128月 大野町教育委員会

 

 

箱館戦争と無縁墓地

 

 箱館戦争は、戊辰戦争の末期、明治元年(1868年)から翌2年にかけて、道南を舞台に繰り広げられた明

治新政府と徳川旧幕臣(榎本軍)との決戦である。北斗市内にも意冨比神社境内をはじめ、二股口(台場山)

や矢不来台場など重要な史跡が残されている。

 明治元年旧暦1024日早朝、箱館戦争の大野での戦いは、大日社(現意冨比神社)の境内で銃撃戦と

なった。新政府軍は福山・大野・松前の三藩連合であったが、榎本軍大鳥圭介隊の巧みな攻撃に打ち破られ

た。 大鳥隊は追撃の手を緩めず、新政府軍は建物に火を放って千代田、有川(久根別)方面へ退却。その

際、備後福山藩の千賀猪三郎(20歳)と松本喜多治(17歳)の2名が、ここ鍛冶在所(現南大野)で戦死

し、葬られている。

 福山藩の戦死者は8名が確認されており、他の4名は光明寺に眠っている。残り二名の藩士についての記

録はないが、無縁仏としてこの地の無縁墓地に葬られているといわれている。この無縁墓地は大野唯一のも

ので、行路病者ら、行き倒れになった者も葬られているという。

 

平成193月 北斗市教育委員会

 


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