■開発・東前・萩野方面

 

 

 

東開発稲荷神社と水虎大神の碑

 

 東開発稲神社の創立は明治20年(1887年)ごろで、祭神は意冨比神社の境内にある稲荷神社の倉稲魂命

の分霊を勧請している。その起こりは、明治17年に入植した者が原因不明の病で死亡し、一同不安を抱く

ので、代表の森井駒吉氏(四国出身)は、開拓に尽力していた高田万次郎氏に告げ、同志の西川初蔵氏が応

援して分霊勧請となったと伝えられている。また境内には東開発の人々が主となり、神社創建満50年をぼく

して、開発功労者6氏の頌徳碑を昭和12年(1937年)に建立し、910日に除幕式が行われ、その日を祭

日とした。撰文はその時の長官・石黒英彦のものである。

 ここ境内に、水虎大神と称する石碑がある。水神のことを水神様という場合があり、飲料水をはじめ、か

んがい用水または海水を含めてつかさどる神として、昔の人の水神へのあがめ方と関心は今の人の創造にあ

まるものがあったとされている。農民にとってかんがい用水にまつわる水神は最も身近な神であり、稲荷信

仰とともに厚く祈願をこめられた神であった。水虎大神と称する石碑に当時の農業や開拓時の労苦にまつわ

る生活舞台を偲ぶことができる。       

 

平成35月 大野町教育委員会

 

 

開発拓殖功労者頌徳碑

 

(碑文の解説)

 開発拓殖功労者頌徳碑 英彦書す。

 大野村出身者にして、早くから公共事業の発展に心をくだき、活力ある農村づくりに苦心した人に、高田

万次郎、中村金兵衛、高田弥五右エ門、西川初蔵、大村菊次郎、品川市郎の諸氏がいた。

 諸氏は相謀り、耕作地の拡大を求め、奔走した結果、60町歩余りの土地の払い下げを得た。しかしそこは

湿地が多く、畑作に適せず、それを変更することにし、その工事を10年掛けて完成させた。

 その結果、その地は良田となり、その後、村民は大いに恩恵を受けることとなった。それから半世紀近く

の後、なお引き続き恩恵に浴していることを感謝する人々によって、この碑が建立されたのである。

 昭和128月 北海道庁長官正四位勲三等 石黒英彦撰す。林貞藏鐫る。

 

平成13年 大野町教育委員会

 

 

萩野小学校

 

 萩野小学校は、明治15年(1882年)に竹部永松によって創立された「竹部塾」が母体である。永松が健

康を害した後は弟の嘉市が引き継ぎ、大野・島川両小学校への距離もあり、就学できずにいた者のために、

昼間は子弟教育、夜間は大人を対象にした教育が行われた。

 竹部塾は明治28年ごろから萩野神社の拝殿で開かれ、私立萩野小学校を経て、明治3351日、大野

小学校萩野分教場となったが、東前に校舎が完成する明治35年までは神社が学校であった。

 大正2年(1913年)、凶作のため衣食に窮し、通学不能になった児童が五十余名出た。その救済のために、

東前協立会より白米一斗五升・麦一斗などの食糧のほか、筆記用具などが寄贈された。この費用捻出のため、

会員は五夜、遅くまで製縄に従事したいう。

 昭和56年(1981年)から翌五十七年にかけて新校舎・グラウンド・体育館が現在地の開発地区に完成し、

戦後、萩野中学校と一緒に活用してきた狭いグラウンドと体育館での学習は、懐かしい語り草となった。

 

平成193月 北斗市教育委員会

 

 

竹部永松先生の碑

 

  竹部永松先生の碑は大正5年(1916年)、先生に教えを受け先生を慕う教え子たちが、先生の生存中に建

てたものである。先生は福井県の出身で、明治12年(1879)に本道に渡り、江差警察署の巡査となったが、

3年後に病で辞任し函館に転居した。しかし、子弟教育を痛感する開発の同県人に懇望され、大野村開発の

農家の一間を借りて私塾を開いた。むしろを敷き、ミカン箱のようなものを机として、師弟一体の苦学が続

いたが、2年後病気が再発して療養のため帰郷し、塾は閉鎖された。

 明治23年(1890年)に母を伴って再び訪れ、東前谷地に入植を決意し、要請されて塾を再開した。父母

や子弟の期待に応え夜学さえ設けるにいたった。しかし、過労のため持病の眼病が再発した。そのころ弟の

嘉市が日清戦争より凱旋。明治28年に初めて本道に渡り、兄弟3人が大野へ落ち着くことになったが、おり

しも永松が健康を害したため、末弟の嘉市に私塾を譲った。

 先生は、地域の子弟教育の他に住民のよき相談役となり、慈父のように慕われ大正14年(1925)、66

でこの世を去った。先生が開いた私塾は、明治35年に開校した萩野小学校の前身的役割を果たし、向学の精

神は現在も「萩野の教育」として脈々と引き継がれている。

 

平成35月 大野町教育委員会

 

 

旧萩野中学校

 

 戦後、教育改革により義務教育の新制中学校制度が発足し、昭和22年(1947年)、大野村立大野中学校が

開校し、同時に萩野小学校を間借りして大野中学校萩野分校が開校した。12年生は分校で学習し、3年生

になって遠距離の本校に通学した。

 しかし地域の熱意が実って、同27年(1952年)、併置校として萩野中学校が開校し、翌年認可を受けて独

立校となった。その後教室が増築され教職員体制も確立し、萩野中学校の教育が発展したのである。この間

地域に根ざした教育効果を高めようと校下住民の絶大な援助がもたらされた。在籍する生徒数も最高時で

177名を有した。その後大野中学校校舎も、戦後の古い建物で老朽化が進み、改築も急がれ、またより高い教

育効果を期待し、大野町内一中学校の方針が決定した。

 昭和49年(1974年)、両校の近い場所にと、両校が統合され、現在の大野中学校が新たに開校したのであ

る。よって旧萩野中学校は、27年間の輝かしい歴史を閉じたのである。

 

平成88月 大野町教育委員会

 

 

大千山最尊寺

 

 最尊寺は、浄土真宗本願寺派に属する寺院である。本尊は阿弥陀如来である。明治14年(1881年)に大野

村大字千代田字東前谷地に本派説教所が開設されたが、開設者は不明である。明治31年(1898年)に福岡県

人であった村上直古氏が旭川本派説教所より着任。

 この地方は福井県人のいわゆる真宗門徒の入植者が多く、説教所開設は干天に慈雨の感があった。その後、

明治39年(1906年)に最尊寺の寺号の公称認可を得たが、堂宇は旧態依然のままであった。そこで壇信徒

は大正2年(1913年)、函館も含め近隣4か村(亀田村、七飯村、上磯村、大野村)230戸から浄財を集め、

3年(1914年)本堂庫裡の新築を完遂した。大正天皇即位の祝賀と併せて、盛大な落成祝いが催された。

 その後、道路拡張工事に伴い昭和60年(1985年)より全面改築を行い現在の姿になり、昭和627

5日に慶讃法要をとり行った。

 

平成712月 大野町教育委員会

 

 

萩野稲荷神社

 

 萩野稲荷神社は、久根別川の河畔にある鎮守社で、倉稲魂命を勧請している。萩野の集落の大部分は、こ

の久根別川に沿ってできており、上流の七飯から上磯を経て函館まで物資を運ぶ際、上磯と七飯の間に位置

する交通の要所であった。この川はよく氾濫したので、昭和26年(1951年)に函館土木現業所の手で改修

工事が行われ、川の突出部に位置した境内も削られて細長くなった。

 萩野の本村である一本木村が、開拓使に願い出た用水路の掘削は、明治11年(1878年)に久根別川の改

修工事があった際認められたもので、以来、水田開発も進んだ。このことからしても、神社の創立は

明治10年(1877年)よりも前と推定される。

 明治22年(1889年)に大野新道(国道227号)が開通して、交通量が増大し、村勢は一変した。

明治28年(1895年)ごろから神社の拝殿で開かれた竹部塾も萩野分校となり、明治35年(1902年)には

萩野分校の校舎が竣工され、萩野小学校となった。

 

平成148月 大野町教育委員会

 

 

かねのわらじ百万遍の塔と地蔵堂

 

 社殿の鴨居に八の字に張りつけられている鉄製のわらじは、大正7年(1918年)ごろ、当時流行の疫病を

払うために、祈とう師のお告げにより氏子たちが、函館の鍛冶屋につくらせたものである。かねのわらじの

信仰は当時の感冒など病魔払いのシンボルとして奉納されたものである。

 また、社殿に向って右後方に並んで百万遍の塔と地蔵堂がある。百万遍のルーツは、大数珠を百回繰り回

し祈願する仏教行事で、家内安全、豊作、安産などを願ったが特に、乳もらい地蔵さんと呼ばれ、お供えし

た米で妊婦がご飯を炊くと母乳に恵まれ丈夫な子が育つと崇拝されたものである。

 

平成元年4月 大野町教育委員会

 


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