■市渡・村山・中山方面

 

 

 

 

 

市渡村

 

 市渡村の起源は、第一説に「明徳年間(139093年・室町時代)相原周防守藩士・川村太郎が率先して市

渡村に永住」というもの。第二説は「庄内藩士七名が羽後の土崎から、砂金掘りの人々に紛れて蝦夷地(福山)

へ渡り、知内の砂金現場で数年過ごした後、砂金掘りに見切りをつけて、富み栄えている港町箱館に移住し、

その後市渡に永住」というものがある。

 市渡の地名の由来は、当時ほとんどの川に橋がなく、「越え場」といわれる川の場所を歩いて渡っていた

ので、その一番目の所に「一之渡」の名が付いた。それが時代の流れとともに「市野渡」「市ノ渡」などを

経て、市渡となったものである。

 明治33年(1900年)に大野村へ統一され、昭和7年(1932年)の字名改正で、41の字を全部解消して

4つの字(市渡、村山、中山、稲里)となった。

 

平成158月 大野町教育委員会

 

 

石鳥居と稲荷神社・川濯神社

 

 大鳥居は花こう岩で造られ安政6年(1859年)に建てられたもので、花こう岩は北陸地方の産地である程

度加工され、北前船(弁財船)の海路で運ばれて有川(上磯七重浜)に荷揚げされたものである。

 信仰心の厚い集落民の献金と奉仕によって建立されたものであるが、支柱に世話人、伝益・賀兵衛・市蔵・

当村若者中と彫られている。伝益は鍼師、賀兵衛は初代の市渡副戸長となった人ですが、市蔵については不

明である。

 前方奥にある社殿が稲荷神社で、平成2年(1990年)820日、国道拡幅工事に伴い旧稲荷神社、旧川濯

神社が統合新築され、祭神倉稲魂命・倭姫命・木花咲耶姫命の三柱を合祀、五穀豊穣・家内安全・夫婦和合

の神・火の神・山の神などとしてあがめられている。旧両社の草創年は不詳であるが、稲荷社は享保3

1718年)、川濯神社は文化元年(1804年)再建との記録がある。また、旧稲荷神社は明治元年(1868年)

~同2年の箱館戦争では、榎本軍の作戦本部として使用された。

 毎年821日、例大祭が盛大に執り行われている。

 

平成109月 大野町教育委員会

 

 

江差山道「鵜山道」

 

 江差山道は、大野側からは「鵜越え」、江差側からは、「大野越え」と呼ばれていた。江差山道の開削に

最初にいどんだ人は、市渡大悲庵(円通寺の前名)の8代住職・道仙和尚である。道仙は安政元年

1854年)、木間内(厚沢部)の旅籠屋主人・麓長吉と工事を始めたが、途中で資金難と人手不足から挫折

した。

 その後も、工事は宗教家または個人の社会奉仕的事業で行われていたが、初めて官として取り上げられ、

明治18年(1885年)8月着手したのが三県一局時代、2年計画で大野側から区間を限って工事に着手し、

北海道庁となった翌年11月、馬車が通行可能な道路として完成した。

 行程62.8㎞、予算10万円余、工夫3,600人と札幌本道以上の難工事だったといわれ、現在の江差山道の

全ぼうがこのとき完成した。間もなく大野新道も開通し、渡島・桧山は一連の経路で結ばれるようになった。

 その後、何度かの改修工事により、拡幅、舗装もされ、昭和41年(1966年)には、新トンネルが完成し、

中山峠越えがさらに容易になり、道南の東西を結ぶ基幹道路である。

 

平成128月 大野町教育委員会

 

 

市渡巡査駐在所跡

 

 明治33年(1900年)、亀田郡七飯警察署市渡巡査駐在所として大野村字本郷に民間家屋を借りて設置され、

23度移転した後、大正4年(1915年)610日、市渡の有志と消防義会の寄付により、字市渡168番地

(現大野消防団第3分団詰所所在地)に設置された。

 七飯警察署の廃止によって大野警察分署の所管となり、昭和23年(1948年)には警察機構改革で函館地

区警察署所属となるが、同30年代に大野警察官派出所に統合され廃止となった。

 管轄区域は七飯村大字峠下一円、大野村字市渡、稲里、村山、中山、向野(小川地区)で、その面積は

昭和23年の道庁告示によると39.2平方kmとされているが、実際はその倍以上もある広範囲な地域を所管し、

任務に当たったと伝えられている。

 特に北西方向の高原(現在のきじひき高原と仁山高原)には、七飯村と大野村の村営牧場があり、牧場や

山麓一帯に毎年熊が出没して家畜や農作物の被害が発生し、頻繁に熊の駆除願を申請したと伝えられている。

 

平成1611月吉日 大野町教育委員会

 

 

正法山円通寺

 

 正法山円通寺は曹洞宗である。大野村史編さん資料によれば、寛文10年(1670年)、市渡村の有志が円

空作の観世音の木像を本尊としたのが始めという。

 延享2年(1745年)に箱館高龍寺6世・大然寂道師が自費で再建し、万尊仏体を安置し地蔵堂と称した。

次いで文化2年(1805年)に大破したので、高龍寺11世・華重禅海師が自費で再建し、大悲庵と称した。

文久2年(1862年)に再度大破したので、明治12年(1879年)、村民の寄付によって再建し、大正6

1917年)225日に現在の寺号である正法山円通寺と寺号公称を得たものであるとされている。

 歴代の住職は、初代住職・龍門活乗から始まり、現在までに12代に及んでいるが、なかでも8代住職・

道仏和尚は、安政元年(1854年)に江差山道の開削に木間内(厚沢部町)の麓長吉と着手した功績は高く

評価されている。平成2年(1990年)、円通寺4世・實道代に本堂庫里を新築し、境内が整備された。

※ 円通寺には円空作の木像は保管されてなく、『大野村史』で円空作とされた木像は、円 空ではなく、

おそらく円空と同時代に彫られた「目定仏」と考えられている。

 

平成712月 大野町教育委員会

 

 

古建築 農家住宅・「安藤宅『まねきや』」

 

 この建物は、明治43年(1910年)、木造平屋建て寄せ棟カヤ葺農家住宅としての建築で、函館近郊の農

村地帯における伝統的農村住宅建築の形式を残すものである。

 「まねきや」店主の故・安藤正一さんは、愛媛県の生まれ。17才のとき「一旗あげよう」と樺太へ渡り、店員

として奉公した後、24才で樺太の落合(ドリンスク)に小間物、雑貨店を開店した。 

 まねき猫の縁起をかついで、店名を「まねきや」とし財をなしたが、昭和20年(1945年)4月に引き揚げ

た。大野に来て当時の農家を買い上げ、改造して同じ店名で商売をしてきたが、平成2年(1990年)、惜し

まれながら大野町の名物雑貨店「まねきや」は廃業した。

 この建物は、文化的にも貴重な典型的和風民家で、豪壮なたたずまいが人目を引くが、もうめったに見ら

れなくなった「田舎の駄菓子屋さん」といった風情も残している。

 

平成148月 大野町教育委員会

 

 

市渡の馬頭観音

 

 草創年は不詳であるが、明治元年(1868年)の神仏分離令布告の際、馬頭観音を所管している大悲庵

(現円通寺)住職が神門取り除きについて村役場に願い出た時の古文書から見て、幕末には建立されていた

と考えられる。

 馬頭観音は慈悲が強く、馬のような勢いで魔を打ち伏せるとされ、江戸時代には馬の供養と結び付いて信

仰されるようになった。当時は和種馬による駄送などが一般的な運送手段だったので、交通安全の守護神と

しても崇められた。

 特に馬の飼養頭数が多かった市渡村では、村有林などに放牧した馬が熊に殺傷される被害が頻繁に起きる

ようになった。先人らは危害を及ぼす悪魔(熊)を屈服させようという素朴で純真な願いから、馬頭観世音

菩薩を本尊として信仰したのである。

 古老の話によると、参道の長い階段の両側に残るクリの木は、かつてかなりの本数があったが、鉄道の枕

木として売却し、その益金を水田の開墾に充てたという。参道には、カール・レイモンが建立した獣魂碑や

嘉永年間の庚申塚などが安置されている。祭日は817日である。

 

平成193月 北斗市教育委員会

 

 

渡島大野駅

 

 北海道最初の鉄道は、明治13年(1880年)に開通した小樽(手宮)~札幌間である。

 函館本線は、明治35年(1902年)1210日に函館~本郷(渡島大野駅の前名)間が開通した。この日

の駅は、開通を祝う人の群れで黒山となった。

 本郷駅は、当初の計画では本郷地区に設けられる予定であったが、計画変更となり現在の市渡(現駅)

地区に設置することになった。駅名は昭和17年(1942年)に「渡島大野駅」となるまで「本郷駅」で

あった。

 また、昔は「停車場」と呼ばれていて、明治から昭和にかけ、桧山方面を結ぶ中継駅としての役割も果た

し、駅周辺は馬車、バスが行き交い、宿屋もあり賑わった。

 本郷駅開通からほぼ一世紀、平成10年(1998年)2月に、夢と希望の北海道新幹線「駅・ルート」が公

表され、大野町に新駅の設置が決定された。

 

平成128月 大野町教育委員会

 

 

カール・レイモンのハム・ソーセージ工場跡

 

 カール・レイモン(18941988年)は、昭和7年(1932年)、大野村の本郷駅(渡島大野駅の前名)近

くに工場を完成し、翌8年に大野工場と名付けた。

 工場・住宅、そして牛35頭・豚310頭を飼育する大きな畜舎やサイロ、さらに食肉処理加工場まで合わ

せ持つ、ハム・ソーセージ造りの大施設工場で、まさに、レイモンが提唱していた「北海道開発プラン」

のミニチュア版であった。

 蓄育から食肉加工までの一貫経営は、経済的・人的資源の活用や産業の育成等地域との交流が行われた。

また、敷地内にミニ動物園を開設して、ライオン・猿・鷲・犬・猫などを飼育し、地元はもとより函館市

内からも小学生が遠足で訪れ賑わった。

 昭和13年(1938年)、強制買収によって大野工場は閉鎖され、函館へ移住をの余儀なくされた。動物

の霊をまつった獣魂碑は、工場敷地内にあったものを市渡住民の手により、近くの市渡馬頭観音の境内に移

設、安置されている。

 

平成128月 大野町教育委員会

 

 

市渡小学校  

 

 市渡小学校の創立は明治15年(1882年)で、当初は「市渡学校」と称した。当時の市渡村は、手紙を書け

る者が少なく、そのため集落に書き役を置き、上役への願い出や手紙の読み書きなどを頼んでいたという。

 向学心に燃える村の青少年たちは、余暇を利用して土や砂の上に字を書いたり、暗い行灯の下で手習いを

したと伝えられている。学校ができる前は大悲庵(円通寺)と金丸塾の二か所で寺子屋が開かれ、生徒は両

塾で二十数名だった。明治11年に大野学校が開校し、両塾から十数名の児童が通ったが、豪雪のため通学が

困難であった。

 当時、住民のほとんどが農家で、「百姓の子供に学問はいらぬ、学問をすると怠け者になる」という反対

意見もあったが、学校開設に数人が奮起して村民を説くなどの努力が実り、明治13年、校舎建築に着手した。

 昭和9年(1934年)に校舎を新築し、その後も増改築を繰り返した。現在の校舎は昭和52年に新築落成

したもので、学校内には今も旧校舎の校札、校章など、貴重な資料が大切に保管されている。

 

平成183月 北斗市教育委員会

 

 

市渡小のクリの木

 

 ここ市渡小学校の校庭に樹齢百年以上も経たと推定されるクリの木が2本ある。このクリの木は、明治

元年(1868年)から翌2年の箱館戦争の時に、市渡稲荷神社を榎本軍が作戦本部に充てた際に、榎本武揚の

命により駒(鈴木駒蔵)という人が植樹したものとされている。鈴木駒蔵は、現在のウロコサン(屋号)・

吉田文三宅付近に移住し、農業などをしていた。

 吉田家は、榎本軍の仮病院(野戦病院)として利用され、同校の東側のクリの木は当時江差山道に面して

築かれた土手に、東西一列に数十本植えられたものである。

 昭和9年(1934年)、校舎が新築されるに至り、このクリの木は2本だけを残して伐採された。現在も土

手に残されている木の根元や塹壕跡に、当時の面影を偲ぶことができる。

 

平成35月 大野町教育委員会

 

 

箱館戦争硝倉の沢

 

 明治元年(1868年)の冬、大野村に榎本軍の額兵隊隊長・星恂太郎以下300人が、官軍との戦いに備えて

陣地を構築した。翌年の春には官軍との交戦は必至であり、江差から上陸すれば江差山道の通過は当然で

あったと思われた。

 そのためここに陣を構えたのは、見通しが良いなど地理的条件を考慮してのもので、焰硝倉(火薬庫)を

この沢においたのも防備に適していたからだと考えられる。この付近の左右の峰地帯には散兵壕数十個があ

り、かつて突出しの沢(この場所より500メートルほど江差寄りの山中)には榎本軍の方形台場(現在は残

されていない)があった。

 当町に住んでいる古老は「火薬は赤ダモの木の箱で運んだそうだ」と語っており、この沢にある大きな赤

ダモの木の根本に焼けこげた跡が残っている。

 今でもこの辺の沢を「焰硝倉の沢」と言っている。

 

平成35月 大野町教育委員会

 

 

大野川頭首工と旧大留

 

  市渡小学校前から国道227号を江差方向へ1kmほど進んだ所で、左下を流れる大野川を堰き止めているダ

ムのような施設が、頭首工(水を農業用水路へ引き入れる施設)である。昔は大堰といった。

 ここから国道沿いを戻るように、日射による水温上昇を図る広幅水路が1kmほど流れている。この間を通

称「分かれ(分水)」と称し、市渡や稲里、本郷、白川、大野方面のかんがい用水や防火用水として使用さ

れている。かつては上流から木材を流し、頭首工の辺りで川を堰き止めて陸上げしたことから、大留ともい

われた。

 文化2年(1805年)、庚申塚(現本郷)で箱館奉行による90ヘクタールの造田が行われ、民間人の白川

伊右衛門も45ヘクタール以上を開田したため、庚申塚を流れていた大野川支流の古川だけでは水不足となり、

さらにこの地から引水したのが大堰の始まりである。

 昭和33年(1958年)から始まった大野平野かんがい排水事業で大改修され、今も毎秒約2トンの水が流

れている。受益面積は約345ヘクタールに及ぶ。

 

平成1611月吉日 大野町教育委員会

 

 

太平三十三観音

 

 観音像の建立については、昭和39年(1964年)に、ある農家の田植えの苗取り作業をしていた市渡地区

の婦人23人の口から、「自分たちの力で、見晴らしの良い町営牧場に観音様を安置したいものですね」

などという話が持ち上がった。

 この話を聞き知った他の婦人らも次々に加入を願い出て、ついに15人の同士が一団となって実行する相談

がまとまった。すると男たちも黙してはおられずと、円通寺住職と相談し、市渡全体に呼びかけ、一体でな

く三十三観音を安置することになった。話題の反響は反響を呼び、町内外からも多数の寄付が寄せられ、

三十三観音のほかに首座観音も安置できるようになった。

 昭和41年(1966年)年830日、首座観音は太平観音と名を冠し、三十三観音と一緒に大野町営牧場木

地挽見晴台(現パノラマ眺望台)に安置した。毎年830日には例大祭が盛大に執り行われる。

 

平成148月 大野町教育委員会

 

 

箱館戦争無名戦士の墓

 

 向野(小川地区)・澤村家の水田の畦に、明治元年(1868年)から翌2年かけて繰り広げられた箱館戦争

の犠牲者の墓がある。

 当時、市渡村の名主は澤村久之丞で、箱館戦争勃発と同時に榎本軍が陣を構えるなど、いや応なしに戦争

の渦中に巻き込まれ、名主として大変苦労したという。

 澤村家は間口が10間(約18メートル)もあり、家の半分は土間だったため、明治元年の冬から翌2年の

春にかけて、榎本軍が下二股口(台場山)などに陣地を構築した際は、作戦本部に充てられた。土間には銃

45丁ずつ組んで立てられ、澤村家は幹部の宿舎にもなったそうだ。

 この一帯は、澤村家の本家や分家が集まる篤農家ばかりで、水田の畦に直径80cmほどの自然石を置いて、

「箱館戦争無名戦士の墓」としてまつっている。

 毎年813日には、一族そろって供養を続けているが、この戦死者が新政府軍のものか榎本軍のものか

は、はっきりしていない。

 

平成1611月吉日 大野町教育委員会

 

 

松前藩の番所跡・毛無山山道入口

 

 市渡T字路より江差方向に約5km進むと、進行方向左手に下川汲橋がある。この橋を渡り、北西の方向に

上川汲沢の旧江差山道を150メートルほど行くと、毛無峠の入り口にあたる。

 この入り口付近に松前藩の番所跡があり、傾斜面の山肌に土砂崩れ防止の石積みがそのままあり、苔むし

ていて当時を偲ばせている。そこから500メートルほどのところに広い平地があり自然石が置いてある。

道祖神かお墓なのかは、はっきり解明されていない。

 この番所は、当時の江差山道の旅人の事故やオオカミの襲来、クマの出現などの対処のため設置されたも

のといわれている。

 

平成410月 大野町教育委員会

 

 

中山分校と開拓

 

 戦後、樺太(現サハリン)からの引揚者を受け入れるため、ここ中山地区の509ヘクタールが緊急開拓地

として選定され、38戸が入植した。入植者は裸一貫大地に挑み、苦難の連続であった。中でも子弟の教育は

遠距離のため、冬期間は通学に困難をきたした。

 昭和29年(1954年)1月、地域の人々が総出で根株を堀り、整地し、ここに念願の大野町立市渡小学校中

山分校が誕生した。児童は1年生から4年生までの複式学級で、最も多いときは28名が在校した。

 豊富な自然を教材にし、地域住民と一体となった教育活動が展開された。また、後に公衆電話がつき、僻

地集会室(兼屋内体育館)も完成して、地域の住民センター的役割も果たした。

 酪農を中心とした農業生産活動は、当初の予想とは違い、不振が続き離農者が出るなど、年々地域在住者

の減少化が進んだ。ついに平成4年(1992年)、入学する児童や在校生が居なくなり、383か月間の学校

の歴史を閉じた。国道227号に面し、箱館戦争など歴史にかかわる地域にあり、自然に恵まれた学校であった。

 今は地域の地域会館として利用されている。

 

平成610月 大野町教育委員会

 

 

鉛山鉱山跡

 

 鉛山は、ここから大野川越しに見える毛無山(標高約750メートル)の北東山麓にある、かつて鉛や銀な

どを採掘した鉱山である。正面に見える杉の大木から東西のすそ野一帯に採掘跡が広がる。

 鉛山鉱山は文政3年(1820年)に、大野村名主ら七人による共同事業として試掘を許されたのが始まりで

ある。鉛、銀、金の山として注目され、安政3年(1856年)からは幕府直轄となって箱館奉行所が経営した

が、利益がなく7年ほどで廃止した。

 その後、昭和30年代までに数社の手を経たが閉山した。昭和7年(1932年)の『北海道工業試験場報告』

には「坑夫百人、雑夫六十人、家屋二十軒、水車一カ所、鉱床九本、吹床二カ所、坑数七カ所」と記されて

いる。鉱種は、金、銀、銅、鉛、亜鉛、硫化鉄であった。鉱山には厳しい掟があり、苦しみに耐えきれず逃

走した者もいたという。

 廃鉱後は立ち入る人もなく荒れ果てているが、この地では病気や坑内事故などで、坑夫や遊女ら多数の人

が亡くなっており、その墓石が今もひっそりと残されている。

 

平成193月 北斗市教育委員会

 

 

江差山道通行の難所と二股古戦場跡

 

 この場所は昔、一番古い道路のあった所で、江差山道の通行の難所といわれたところである。下方の川に

は大野川の支流・下二股川がある。

 箱館戦争の明治2年の戦いでは、榎本軍が各要所にざんごうを掘って、土方歳三を隊長とする約300人の

兵を率い、頑強に官軍の前進を阻止した所である。海岸戦の矢不来戦で榎本軍が退却したので、土方軍も撤

退したものであるが、そうでなかったら二股戦はまだまだ長引いたものと思われる。

 明治3年(1870年)84日には、後に京都東本願寺22代法主となった大谷光瑩一行が江差までおもむく

ために、この沢を越した所でもあり、江差のニシン漁華やかな時代には、大勢の人々が往来したところの道

路でもあった。

 

平成610月 大野町教育委員会

 

 

箱館戦争二股口の戦い

 

 明治元年(1868年)10月、榎本武揚率いる艦隊は鷲ノ木に上陸した。新政府軍に勝利した榎本軍は五稜郭

に政権を樹立した。

 奪回をめざす新政府軍が江差方面から上陸し、江差山道を通過するのは十分想定された。従って榎本軍は

山沿いに散兵壕や台場を築き、下二股川の崖をはさんで反攻を防ぐ作戦に出た。

 新政府軍は翌2年(1869年)、予想通り乙部・江差から上陸した約600人が山道を通った。一方、榎本軍

の土方歳三を隊長とする約300人は台場山へ砲台を築き、二股口で待ち構えていた。413日(旧暦)、新

政府軍は対岸にたどりつき戦闘が開始された。川を渡り天然の要塞である二股口を突破しようと何度も試み

るが、土方隊の発砲で押し返された。

 海岸線・矢不来(上磯・矢不来)の戦いで榎本軍が敗れたため、土方隊は51日、陣地を放棄して五稜

郭方面へ退却した。

 

平成128月 大野町教育委員会

 

 

佐藤安之助の墓

 

 箱館戦争の台場山を中心とした戦いは、明治2年(1869年)413日から18日間にわたり、乙部町に上

陸した官軍600人と榎本軍300人が、この台場山周辺で大激戦となり、新政府軍軍監・駒井正五郎が戦死し

た。

 この墓はその激戦で戦死した佐藤安之助のものである。墓には「佐藤安之助鹿児島藩従者・明治24

24日」と刻まれているが、「弘前藩記事・戦死履歴」には「文政10818日生・鹿児島藩伊集院宗次郎

軍夫」、開拓使編「戦死人墳墓明細履歴書」に「42歳陸奥国津軽郡駒越村」とあるように、その履歴は、

ほぼ明らかにされている。駒越村とは岩木山の山麓の町で現在の岩木町である。

 明治から大正時代、この場所にヤマチョウ(屋号)・前田吉五郎が旅館を開業していたが、それを引き継

いだ大野町市渡の横山重雄さんによると、お盆には遺族の方がお参りに見え、周辺の掃除や手入れをしてい

たという。

 

平成128月 大野町教育委員会

 

 

大石の沼・桧沢の滝

 

 ここ国道から吊り橋を渡り大野川を横断し、西方に40分ほど山道を歩くと、毛無山中腹の標高約

400メートルの場所に約20アールの「大石の沼」がある。

 明治10年(1877年)ごろ、大野平野に水田が開田され面積が広がることによって、かんがい用水が不足

になり、水争いが絶えなかった。農民がこの沼に目をつけ、水路をつけて大野川へ水を落とそうと工事にか

かった。工事が進みあと一日位で完成という時に激しい雷雨が発生した。この大石の沼に竜神様がいて、水

を流されてしまうといる場所がなくなるので、怒っているのだ。ということで工事を中止にした。沼の周り

には水芭蕉が咲き、静かな神秘的な沼である。

 大石とは、この沢から流れる大野川の本流の場所に、大きな石があることで名付けられた。

 大石の沼の北方向の木の生い茂る中に滝がある。無名であったが、最近、桧沢にあることから「桧沢の滝」

と命名した。高さ15メートル、幅12メートルほどの大きさで、白いしぶきを上げながら三段になって落ち

ている。

 自然散策ルートとして森営林署によって道路と吊り橋が整備された。

 

平成88月 大野町教育委員会

 

 

天狗岳

 

 天狗岳(標高373メートル)は、箱館戦争の激戦地の一つとして有名である。旧江差山道はこの山につけ

られており、旅人の難所の一つであった。現在も北側中腹と裾野に旧道路が見られる。この道路は渡島と檜

山の物資の交流はもちろん、人々の交通に大きな役割を果たしていた。

 こうして交通の要路である天狗岳の山道一帯は、明治2年(1869年)413日の箱館戦争の戦場として、

土方歳三の部下・友野栄之助らが100人の兵士を指揮し、最も冴えたゲリラ戦術を展開したところである。

 

平成158月 大野町教育委員会

 

 

清水三四郎遭難の碑

 

 江差山道の開発に伴う大野町の発展は史実にも認められ、江差との交通・文化・経済の交流は、ここから

始まった。

 明治14年(1881年)26日、檜山爾志郡役所(江差)の夫卒・清水三四郎(鹿児島県人)が、郡役所の

訴訟用罫紙が不足したため、その購入に函館まで雪をついて20里(約80km)を24時間で踏破し、罫紙

80葉を背にすぐ引き返したが、猛吹雪となり止むなく二股岳の旅館に宿泊した。翌朝さらに天候は悪化した

が「役所にすまぬ」と、旅館主の止めるのを振り切って出かけ、ついにこの地で帰らぬ人となった。

 明治19年(1886年)に箱館支庁長・時任為基が鶉山道の改修工事を視察した際、この話を聞き招魂の碑

を建て、その霊を慰めている。

 

平成35月 大野町教育委員会

 

 

清水三四郎之墓碑

 

(碑文の解読)

 明治19年(1886年)、時任函館支庁長は管内諸郡の巡視を兼ねて鶉(江差)山道を見て回った。後に支

庁長は私に言われた。

 「以前、桧山郡役所に勤めていた清水という人がいた。函館に行き帰り道、鶉山道で凍死した。今、この地

を通ると、魂がさまよい本当に哀れと思う。だから魂を招いて葬り、碑を天狗岳の下に建て後世の人に知ら

せたい」

 碑文を書くように言われ一旦は断ったが書くことにした。

 文書を調べると、三四郎と言われた清水氏は、鹿児島県河辺郡清水村の農家に生まれた。明治5年(1872年)

開拓使の募集に応じ札幌で仕事をしていた。後に市来氏に従えられ江差に来て、専ら市街の警邏に当たって

いた。後、郡役所に仕えていた。

 141月、たまたま役所の訴訟用罫紙が不足したため、急いで誰かが函館に赴き受け取らなければならな

かった。急を要するものであったから、三四郎が命ぜられ、直ちに雪を突いて出発した。20余里の道程を僅

24時間で到着したという。当時の道路は険悪で、今の道とは比べものにならない。崖も谷も凍った道を

歩き果たした。三四郎は疲れた様子もなく用務を済ますと、直ちに帰途に就こうとした。

 支庁の人は「疲れたろうから明日の朝出発したほうがいい」と言うと、三四郎は「これから、大雪で阻ま

れないとは予測できないし、早く帰ることにこしたことはない」と、罫紙800枚を背負い出発した。

 次の日、二股岳下の宿屋に着き、一休みして出発しようとしていた。もう夕暮れになって篩から降るよう

に雪が飛んでいた。宿屋の人達はこもごも引き止めたが、聞き入れずに出発した。この夜、再三引き返しつ

いに宿泊した。

 次の日朝早く起きて食事をし身支度をした。またしても烈風は雪を巻き上げ一寸先も見えず、寒気はいよ

いよ加わってきた。旅人達は皆外へ出ようとしなかった。

 宿屋の主人や家の人はまた忠告していった。

 「こんな時に旅をして遭難した人がいるのだから、晴れるのを待ったほうが良い」

 三四郎は「昼夜兼行の命を受けている。一宿して一日遅れてしまい、役所に対して申し訳の言葉がない。

例え槍が降ろうが行かなければならない。こんな雪で止めるわけには行かない」と振り切って出発した。

 明治1426日の事であった。この日は異常の風雪であり、終日旅人の人影はなかった。主人は心配の

あまり、次の日函館から郵便逓送人が到着したので、道の先ざきを注視して江差まで見てほしいと依頼した。

ついに人影は見えず郡役所に報せた。人々は皆三四郎の死を知ったのだ。

 市来郡長は大いに悼み惜しみ、男達を出し山谷を捜索したが、死体は見つからなかった。更に雪解けを

待って大捜索したが又見つからなかった。

 郡長から具申があって若干の賜金をもって弔意とした。三四郎は34才の生涯であった。妻も子もなく悲し

いことであった。

 三四郎は素養あるものでなかったが、その死は義のため身を忘れ奮進して敵を倒す者に似ているが、そう

だろうか。あるいは鹿児島士人の勇敢さの現れであろうか。三四郎は生来義に篤く、止むに止まれぬ行為だ

と思う。

 ああ、公の碑を建て後世に伝える所以はこににある。すなわちこれを墓銘として記す。

 職務に熱心で立派な人物である。命知らずのものとは大いに違う。この岳(天狗岳)を住まいとする。辺

りは険しい岩だらけだ。後世何時までもここを通る人は誰もがそのに行跡に感心するであろう。

北海道庁属 小貫 庸徳撰  北海道庁属 小笠原純一書 明治20年 建立  

 

平成910月吉日 大野町教育委員会

 

 

「出会いの滝」小滝の沢

 

 国道227号は、函館と江差方面に行く人々や物資の交流に重要な道だった。この道路は安政元年(1854年)

に開削され、初めて挑んだのは、市渡大悲庵(円通寺の前名)の庵主・道仙で、木間内(厚沢部)の旅籠屋

の主人・麓長吉と話し合い、小滝の沢で落ち合う約束で、中山と峠をはさみ、東と西から工事を始めたとこ

ろから「出会いの滝」ともいわれている。市渡の檀家の人々が参加したが、資金難と人手不足のために残念

ながら途中で挫折してしまった。

 また、安政5年(1858年)に、鈴鹿甚右衛門と長坂庄兵衛の人夫70人による工事が始まり、半年後に道

2間(約3.6メートル)、延長11里(4.3km)、大小の架橋7か所、総工費800両(現在の賃金では約2

4千万円)の道路が完成した。

 滝は幅7メートル、高さ12メートルで、水量も多く年中水が枯れることはない。四季折々の景観はすばら

しく、紅葉の時期には、ドライブする人々の小休止の場となっている。

 

平成128月 大野町教育委員会

 

 

中山峠(江差山道)

 

 函館・江差間の国道227号は、渡島と桧山を結ぶ動脈である。江差山道開削には、嘉永6年(1853年)、

市渡の大悲庵・道仙と木間内(厚沢部)の麓長吉、安政4年(1857年)、江差の鈴鹿甚右衛門、明治3

1870)、現如上人が、それぞれ挑み、改良を加えている。

 この間、明治元~2年(186869年)には箱館戦争があり、緒戦を制した榎本軍は山道沿いに塹壕を築い

た。乙部、江差から反撃に転じた新政府軍の進撃を、土方隊が台場山で食い止め激しく戦った。しかし、榎

本の命で五稜郭へ退却した。

 明治14年(1881年)2月、江差爾志郡役所の清水三四郎は用務で函館へ赴き、帰途、吹雪にあい遭難した。

その死を悼み天狗岳の麓に碑が建っている。

 山道は旅人の難所であったが、明治19年(1886年)、道庁は2年をかけ官営事業として初めて江差山道

の大改修をした。その様子は沢田雪渓が描いた石版画により、旧新道路の比較ができ、つぶさに観察できる。

 昭和41年(1966年)には、新中山隧道の完成とアップダウンの解消など改良を加え、舗装を施し、函館

江差間は整備された。

 

平成1310月 大野町教育委員会

 

 

切り掛けのオンコ

 

 ここ中山隧道バス停から約500メートルほど江差方向に進むと、右側の小高い丘になっているところにあ

るオンコの木を「切り掛けのオンコ」という。これは明治2年(1869年)現在の『市渡村絵図』(大野町教

委所蔵)に記されており、ここが駅逓で大野側と檜山側の郵便物交換場所であった。オンコはその目印で

あったと言い伝えられている。

 江差山道は、渡島と檜山の交通上の要路であり、山道を開くために多くの人たちが挑んでいる。最初に挑

んだ人は、市渡・大悲庵(円通寺の前名)の庵主・道仙と木間内(厚沢部)の旅籠屋の主人・麓長吉である。

安政元年(1845年)のことであるが、資金難と人手不足で工事途中で挫折したという。その後、安政5年に

鈴鹿甚右衛門と長坂庄兵衛が総工費800両、道幅2間(約3.6メートル)、延長43kmを完成した。これらの

工事は、いずれも宗教家または篤志家の社会奉仕的事業で実現した。

 江差山道の画期的工事は明治18年に起工され、翌年11月に開通した官営の工事である。この大工事後い

くばくもなく大野新道が開通し、渡島・檜山が一連ルートで結ばれ、現在の国道227号として現出したもの

である。

 「切り掛けのオンコ」は、現在のように道路が整備されない時代の文書交換の貴重な場所と注目され、当

時が偲ばれるものである。

 

平成148月 大野町教育委員会

 


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