■本郷方面

 

 

 

本郷村

 

 本郷村の起源は大野の水田の歴史でもある。

 『休明光記』に「すなわち丑年(文化2年)より開発せしむるに、その年一年に功を成すこと新田百五十

町歩、田九十町歩字申庚塚・五十町歩字文月」とあり、これだけの大きな面積の開田は蝦夷地で初めてのこ

とだった。

 本郷の地名の由来は、庚申塚のあったところとなっている。『新撰北海道史』にも「庚申塚のち本郷と称

す」と記載されており、庚申塚が建てられたのは寛政8年(1796年)で、文化2年の大開田より9年前のこ

とである。

 鹿島神社が寛政年間(17891800年)の鎮座となっており、このころから人家も増えたものと考えられる。

明治33年(1900年)に大野村へ統一され、昭和7年(1972年)の字名改正までは8つの字があった。同年、

本郷、細入、白川の3つの字が制定された。

 

平成158月 大野町教育委員会

 

 

旧本郷小学校

 

 本郷小学校は、これまで開校と廃校の記録だけで、幻の学枚であったが、『新大野町史』編さんに伴う調

査で沿革誌や卒業証書が発見され、存在が明らかになった。

 この学枚は明治17年(1884年)9月、大野小学校から独立、分離し、同32年の廃校まで、およそ16年間、

独立校として存在した。校区は本郷、白川地区を中心とした当時の本郷村で、校舎は鹿島神社社務所付近に

あったと伝えられている。

 明治19年の『公立本郷小学校沿革誌』によると、この年の入学者は男子10名、女子2名、退学者は男女

1名で、秋季定期試験受験者は男子25名、女子3名、計28名とあり、相当数の生徒が通学していたこと

がわかる。教員には、五十嵐量平や高橋松三郎がいた。

 廃校の理由には、大野小が明治3010月、現在の役場所在地から現在地に移転し、通学が容易になった

ことが考えられる。廃校によって本郷小の児童は、鹿島神社横の通りで分断され、大野村側は大野小へ、市

渡村側は市渡小へと通うことになった。

 

平成1611月吉日 大野町教育委員会

 

 

大郷寺と白川伊右衛門の墓

 

 大郷寺は、東本願寺大谷派の寺である。

 大野村史によれば、文化2年(1805年)は箱館の千葉久治が市渡村の八軒家(現在の稲里)に開拓を志し、

常陸国(現在の茨城県)の枕石寺の衆徒であった日野西宜と協力し、福山専念寺及び本山の許可を得て千葉

道場を建立した。次いで、文政元年(1818年)に八軒家から現在の地へ移転した。その移転先の土地は、白

川伊右衛門の寄付地であったといわれている。安政5年(1858)に大郷寺と改称された。

 さて、大郷寺の境内に白川伊右衛門の墓がある。白川伊右衛門は、本郷の開田の開祖といわれている人で

あり、開田は文化2年より始められ文化4年までの3か年間で、墾田面積は45町歩である。伊右衛門は

文化4526日に本郷で亡くなっている。しかし本郷の在住期間はわずか2年ほどであったといわれて

いる。

 

平成158月 大野町教育委員会

 

 

大郷寺の公孫樹記念保護樹木

 

 この木は、樹齢175年と推定されるいちょうの木です。文化2年(1805年)に本郷の開祖、白川伊右衛門、

僧西宣の2人が来道し、のちの13年後、現在の大郷寺の地に移ったとき、このうちのどちらかが植えたもの

と思われるが不明である。

 秋にはたくさんの実をつけ、参拝と合わせ大勢の町民でにぎわう。また、隣接に幼稚園(平成11年、市渡

へ移転)もあり子どもたち達の教育樹木としても親しまれている。

 

昭和47325日指定 北海道

 

 

鹿島神社と庚申塚

 

 鹿島神社の起源についてはつまびらかではない。市川十郎の『蝦夷実地検考録』では寛政年間

17891801年)とし、村史では文政年間(181830年)となっている。この地が文化年間(180418年)

に箱館奉行の手で水田の開発が行われたころは、庚申塚と称されていたので、鹿島神社の鎮守はその後であ

ろう。

 文化2年(1805年)箱館奉行の大開田が行われ、同時に民間人の白川伊右衛門(相馬藩士)も開田に努力

しているが、数年で病没、兄の伊左衛門が後を継ぎ、箱館奉行の援助で水田開発を完成した。これを基盤と

して本郷村が形成された。

 鹿島神社の祭神は、武甕槌大神である。農村には稲荷神社が多いのに、本郷だけに鹿島明神が奉祀された

のは異様であるが、本郷村の開祖と関係ある白川一族の渡来先の因由に基づくものであると考えられる。

境内にある庚申塚は、大野で一番古いもので、寛政8年(1796年)に建てられた。当時の11名の有名人の

名が刻まれている。

 庚申信仰は、庚申の年に禁忌を要求したもので、村のはずれや辻に建てられたといわれている。

 

平成35月 大野町教育委員会

 

 

旧大野中学校と校門

 

 敗戦2年後、教育改革により義務教育の新制中学校が発足した。大野村にも昭和22年(1947年)530

に大野中学校が開校した。開校といっても校舎は大野小学校に間借りした。同時に萩野分校も萩野小学校で

開校した。その4年後、校舎は現在の町スポーツセンターの地に完成した。資材不足の中での木造校舎で

あったが名実ともに独立した。体育館の蛍光灯は珍しい時代でその輝きは印象的であった。その後、萩野分

校は独立した。

 昭和32年(1957年)、創立10周年記念事業として建てた校門はユニークで、鉄材が何本もにょっきり

立っていた。前方の校舎がよく見え生徒が大きく伸びるようにとの願いを込め、それまでの校門の常識を破り

近代的で斬新的に魅了させたもので、旧大野中学校の象徴でもあった。また、校門の間には自転車で飛び出せ

ないように大きな玉石が敷かれていた。

 昭和47(1974)27年間の歴史と伝統を閉じた。4,700余名の若人を送り出し、地域職場の指導者、

中堅者となって活躍している。現在の大野中学校は、統合されて約1.5㎞函館よりに建てられた。

 

平成1110月 大野町教育委員会

 


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