■本町方面

 

 

 

大 野

 

 大野という地名の由来は、最初に住みついた人々が自分たちの渡来先の村の名を付けたという「郷土説」、

広々とした大きな野であることから大野と付けたという「地形説」、アイヌ語の中に語音に似たものがあった

ので付けたという「アイヌ語説」があるが、どれという決定的な根拠はない。

 大野の名が登場するのは寛文9年(1670年)、松前藩とアイヌ民族との戦いの中で、松前藩救援の津軽藩

兵が大野村に滞留したとあるのが最初である。同年の『津軽一統志』には、大野は「戸数20戸ばかりあり」

と書かれ、1600年代には集落が形成されていたと考えられる。

 米づくりは元禄5年(1692年)、松前藩の命により、当時、文月村の野田作右衛門が開墾し水田を試作した

ことから「北海道水田発祥の地」とされ、記念碑が建てられている。文化2年(1805年)から箱館奉行や民間

によって本格的な開田が進められ、米づくりは北海道全域へと広がっていった。

 明治元年(1868年)、鷲ノ木村(森町)へ上陸した榎本軍は、官軍と意冨比神社境内で戦い、また翌2年に

は中山二股で乙部から上陸した官軍と、迎え撃つ土方歳三の率いる榎本軍とが大激戦となる箱館戦争の戦場地

でもあった。

 明治13年(1880年)、大野ほか5か村に戸長役場が設置され、同33年(1900年)には大野村に統一され

た。全道から大野村ほか15か町村が一級町村に選ばれた。昭和32年(1957年)町制施行され現在に至る。

 大野は、昔から交通の要衛として村が形成され、米づくりとともに発展を続けてきた。現在は工業団地や

新興住宅団地が開発され、観光でも注目されている。さらに北海道新幹線の新駅が計画され、新たな発展が

大きく期待されている。

 

平成88月 大野町教育委員会

 

 

煉瓦の家・中村家

 

 大野町では珍しい赤煉瓦造りの建物が中村邸である。

 中村邸は明治43年(1910年)、八郎沼の所有者でもあった中村長八郎によって、茂辺地(上磯)の煉瓦で

建てられたものである。関連の建物が役場敷地内にもあったが、今はない。また、大野養蚕場の建物にも茂辺

地の煉瓦が使われていたという。

 函館市内に煉瓦造りの建物が多いのは、火災が多かったので開拓使が奨励金まで出して不燃性建築を奨励し

たことや、明治5年(1872年)、茂辺地に煉火石製造所の名で煉瓦の製造所を設けていたことにもよる。

 函館市内の中華会館、旧郵便局(現・明治館)、金森倉庫などは明治40年の大火で前の建物が焼失した後、

明治4344年にかけて茂辺地の煉瓦を用いて建てられたものである。

 

平成1310月 大野町教育委員会

 

 

音楽家・上田 仁

 

 上田仁氏は大野出身で、東京交響楽団の常任指揮者を長く務め、母校・大野小学校の校歌の作曲もしている。

 彼は明治37年(1904年)、大野村で医師を父として生まれた。大野小学校尋常科を卒業後、東京に憧れて

電機学校に入ったが、浅草オペラに魅せられて音楽を志すようになり東洋音楽学校に移っている。

 ピアノ科でめきめき上達し、優秀な卒業生6人のメンバーの一人として、東洋汽船に乗り込んで、船客に音

楽を聞かせた。音楽家として香港、ハワイ、アメリカ本土などへ幾度も渡航している。

 大正14年(1925年)、作曲家・山田耕作のもとファゴットの勉強をはじめ、新交響楽団に加わると、以来

17年間、主席ファゴット奏者を務めた。

 昭和20年(1945年)、東宝交響楽団の指揮者としてデビュー、東京交響楽団へと発展していくなかで頭角

を現し、昭和39年(1964)まで常任指揮者を務めた。2年後の大阪でピアノ指導中に急死した。現代音楽を

わが国に紹介した功績は多大である。ソビエト文化省から名誉証書を贈られている。

 

平成148月 大野町教育委員会

 

 

箱館戦争と意冨比神社の戦い

 

 明治元年(1868年)旧1020日、旧幕府軍は鷲ノ木(森町)に上陸し、本隊は箱館(現函館)に向かい、

分隊は峠下(七飯)コースを進軍した。1024日午前7時ごろ、風雨の中、今の峠下から五稜郭へ進軍のた

め向かおうとする榎本軍・大鳥圭介隊と、阻もうとする官軍藩兵とが市渡で遭遇、意冨比神社境内を中心に白

兵戦になった。

 しかし、作戦に長ける榎本軍にとって官軍は相手ではなく、約1時間の戦いで敗走する官軍を南大野まで追

撃した。この間、大鳥隊の放った大砲の弾が今の十字街や下町辺りの家に当たって燃え上がり、強い北風にあ

おられて十数件が消失した。

 村民は銃声や火災に逃げまどった。両軍の死傷者はかなりの数であっただろう。官軍の墓だけでも10基以

上になっている。なお、意冨比神社のイチイの木に弾痕がある。

 

平成410月 大野町教育委員会

 

 

郷蔵・役場・登記所とプラタナス

 

 大野の米づくりは安政年間(185459年)に安定したものとなり、箱館奉行は村の年貢米や備蓄米を貯蔵

する「郷蔵」をこの地に置いた。

 そして時代も移り、明治33年(1900年)、大野村ほか5か村が合併し、道内初の一級町村制(大野村を含

16町村)が施行され、村名を大野村とし、この地に役場庁舎が設置された。警察も同居し、中の会議室は

大野小学校の分教室としても使用されていた。

 現在残っている建物は大正3年(1914年)、通称「登記所」と呼ばれる函館地方法務局大野出張所が移転、

新築したときの書庫である。当時、函館地方法務局管内では最初のシャッター付耐火書庫で、珍しい貴重な建

造物であり、業務は昭和52年(1977年)9月まで続いた。

 また、プラタナスの木は昭和12年(1937年)、大野小学校開校60周年記念の植樹として、1メートルぐら

いの苗木5060本を、横山石油㈱から中村米穀店までの間に生徒が植えたもので、長年の間に折れたり枯れた

りして、ついにこの一本だけ残ったものである。

 

平成148月 大野町教育委員会

 

 

意冨比神社の水松記念保護樹木

 

 大野町には、江戸時代初期のころから人々が住みはじめ、寛文9年(1669年)のころ、すでに家が20

ほどあったとされています。このイチイはそのころ植えられたもので、大野町の350年の歴史を物語る古木と

して指定されました。

 

昭和47325日 北海道

 

 

意冨比神社環境緑地保護地区

 

 この地区は、イチイ、スギ、カツラ等の大径木からなる面積約0.5㌶の境内林です。

 地区内には、大野町開拓の歴史を物語る推定樹齢360余年のイチイがあり、昭和47年(1972年)3月に道条

例に基づく記念保護樹木に指定されているなど、市街地周辺の環境緑地として維持することが必要な樹林地と

して、住民に親しまれています。

 

昭和63526日指定 北海道

 

 

意冨比神社の忠魂碑

 

 日露戦争後、各地に戦死者の慰霊碑が建てられた。郷土でも明治44年(1911年)11月、在郷軍人会が村民

有志の協力を得て、向野の観音山に忠魂碑を建立した。

 観音山は、それ以前から馬頭観音祭に併せて消防組が花相撲を行うなど、村民集いの場であったが、忠魂碑

が建ってからは慰霊祭も行われ、さらに賑わいが増したという。

 忠魂碑は昭和42年(1967年)、遺族会が参拝しやすい場所に移そうと会員から資金を集め、観音山から意冨

比神社境内へ移設された。基礎の台は新設され、日露戦争に太平洋戦争までの戦没者を加え、あらためて字別に

224名の戦没者の姓名碑を両側に並立した。

 太平洋戦争では、特に中国、南方方面ではおびただしい数の人が犠牲となり、激しい沖縄での戦いや函館湾

の連絡船空襲などで、郷土からも多くの戦死者を出した。

 碑前で行われる慰霊祭は、かつて「忠魂祭」や「戦没者慰霊祭」と呼ばれていたが、現在は「平和祈念祭」

と名を変え、遺族会が主催して毎年620日、戦死者の冥福を祈るとともに、平和を願ってしめやかに行われ

ている。

 

平成183月 北斗市教育委員会

 

 

大野村

 

 大野の地名の由来は、広い原野だったという説、移住者の郷土名による説、アイヌ語説があるが、どれも決

定的な確証がない。

 大野村が歴史に初めて登場するのは、寛文9年(1669年)、松前藩とアイヌ民族との戦いで、松前藩救援の

津軽藩が大野村に滞留したとある。同年の『津軽一統志』には、「大野村の戸数二十戸ばかり」と記され、西

1600年ごろには集落が形成されていたと考えられている。

 水田も徐々に開かれ、文化2年(1805年)、箱舘奉行は大開田のため会所(現在の大野小学校敷地)を置い

た。町並みも整い宿場町の体を成し、「人馬往来多く内地五街道のごとし」といわれるほど賑わった。

 明治13年(1880年)、大野ほか五か村(市渡、本郷、文月、千代田、一本木)の戸長役場が設置され、人

口も急速に増加して7千人に届き、明治33年には6か村が統一し、一級町村に格付けされた。区域は現在の

本町、開発、清水川、南大野、向野の5つの字である。

 

平成158月 大野町教育委員会

 

 

公立病院跡

 

 幕末から明治にかけ、麻疹やコレラが数年おきに大流行し、光明寺や円通寺の過去帳によると、特に幼児の

死亡者が多く、かなりの子供が犠牲となった。

 人口増加に伴い、公立病院の設立が望まれ、山田致人ら村の主だった人たちが発起人となり、村中の賛同も

得て運動した結果、明治13年(1880年)、大野に初めて第7公立病院(院長・宍戸精菴)が開業した。翌年

には「大野病院」と改称している。

 初代・宍戸院長は仙台藩の出身で、亘伊達藩が北海道へ移住した際、開拓使の役人だった山田致人が援助

した縁で迎えられた。明治27年には上田春庭が院長として来住し、2年後には大野病院が廃止され、村医と

なったが、内容的には従来と変わりなく、そのころ相次いで宍戸、長谷川らの医師も開業している。往診は

主に乗馬で、車夫を置いて人力車を使用する医師もいた。

 大正11年(1922年)の記録によると、大野には医師3、産婆4、伝染病舎1となっている。歯科医院は昭

和に入ってからの開業である。

 

平成1611月吉日 大野町教育委員会

 

 

大野会所と大開田

 

 文化2年(1805年)、大野は幕府の手により諸国から集められた農民500人によって庚申塚(本郷)に

90町歩(90ヘクタール)、文月に50町歩(50ヘクタール)が大開田された。それには箱館奉行の山田鯉兵

衛、村上次郎右衛門、石坂武兵衛、代島章平らの役人が当たった。

 広い敷地内に開田の役所である会所を置いた。それが後に大野小学校の敷地になったのである。周辺には多

くの杉がそびえていたが、その大木の切り株の一つがこれである。文化財指定になっている「大野村絵図」に

は元御本陣跡と記され、会所の建物のあった所が示されている。

 官営と同時に民間でも庚申塚に白川伊右衛門、千代田に島津才兵衛、伊達林右衛門、一本木に川村新左衛門

が開田した。

 稲作は思わしくなく3年後には開田を中止してしまった。その後、高田万次郎や松田仁三郎などの努力、幕

府の奨励もあって復活し、安政3年(1856年)には豊作になり、箱館奉行は蝦夷地米として江戸まで送った。

ついに稲作は安定したものとなり北海道全域へと広まっていったのである。

 

平成610月 大野町教育委員会

 

 

木村文助大野小学校長と「村の子供」

 

 木村文助は、明治15年(1882年)秋田県落合村に生まれた。秋田師範を卒業して県内の小学校の訓導・

校長を歴任。大正6年(1917年)、志を抱いて渡道し、大正7年から昭和3年(1928年)まで大野尋常高等

小学校の訓導兼校長として、綴り方指導と学校経営に活躍され多大な貢献をした。

 童話作家の鈴木三重吉主宰の赤い鳥運動に共鳴し、作文(つづり方)に限らず、図面も児童文芸雑誌

「赤い鳥」へ応募し、他校の群を抜いて毎号のように入選して誌上を飾り続けた。

 また、入選の作文や自らの論文も含めてまとめ、『綴方生活 村の子供』を発刊した。全国の教師や子ども

達に広く読まれ、「北海道の赤い鳥学校」とまでいわれ、郷土を誉れ高いものにしたのである。

 その後、砂原小学校、戸井日新小学校を経て退職し、昭和28年(1953年)、森町で教育にささげたその生

涯を終えた。綴り方教育実践の業績は「北海道教育史」に詳しく掲載されている。木村の研究者も全国におり

出版物も出されている。

 

平成128月 大野町教育委員会

 

 

大野小学校

 

  明治10年(1876年)2月、大野、本郷、市渡各村の役人五名が函館支庁から呼び出され、学校設立を説諭

された。帰村後、各村で相談したが、まとまらないまま月日が流れ、その後、少書記官柳田友郷、一等属有竹

裕の両人が来村して校舎設立を促し、文月村も加わることになった。

 子弟教育のため学校設立に反対はなく、四つの村で協議が進められ、場所は大野と決定。明治11216日、

大野村九番地(現在の増田クリニック辺り)の旧扱所(村役人の詰所)を改造し、「大野学校」として開校し

た。

 敷地293坪、建坪63坪、教室4、生徒150名と記録されている。校舎はその後、明治19年に現在の北斗市

総合分庁舎所在地に、さらに同30年に本郷との境界に近い現在地に移転した。

 明治25年に公立大野尋常小学校と改称し、六か村で唯一高等科が設けられ、ほかの小学校を卒業した児童は

遠距離登校して勉学に励んだ。校歌に「六つの村の子集い来て…」とあるように、はじめに大野学校という母

校があり、これを母体に独立や合体の歴史を経て現在に至っている。

 

平成183月 北斗市教育委員会

 

 

大野ダイヤ倶楽部

 

 函館太洋倶楽部の前期黄金時代を築いた伏見勇蔵の出身地である大野は、相撲とともに野球も盛んで、

大正10年(1911年)の冬、社会人硬式野球チーム「ダイヤ倶楽部」が創立した。「ダイヤ」は「大野」を音

読みしたもので、「◇」をマークとした。

 創設時のメンバーは広照寺の住職・百目木隆寛を監督に、役場職員、医師、小学校教師、村の実業人らで構

成され、オーシャンと練習試合をするなどクラブチームとして成長。町村のチームとしては珍しいほど強かっ

たという。

 戦後も野球ブームに乗り、函館や七飯など近郊のチームを招いて交流試合を行うと、応援の村民らで大野小

学校のグラウンドは黒山の人だかりであった。また、大野村地区対抗試合を主催して住民を大いに楽しませた。

 その後、若者の流出やスポーツの多様化などで、ダイヤ倶楽部も衰退を余儀なくされた。しかし、先人たち

によって培われた精神と伝統は、子供たちに立派に受け継がれ、少年野球チーム「大野少年ダイヤ」は、

平成8年(1996年)に北海道一の栄冠に輝いている。

 

平成193月 北斗市教育委員会

 

 

ご成婚記念の桜並木

 

 大野川に沿って南北に走る町道本郷川原町通線の両側に、ソメイヨシノを中心としたおよそ100本の桜並木

がある。この桜は昭和34年(1959年)、当時の皇太子殿下(平成天皇)のご成婚を記念して、町が植えたも

ので、5年ほど育苗した苗木を取り寄せ、町民の協力で植樹された。

 当初は150本ほど植えられたが、その後の道路整備や河川改修で伐採されたり、一部が枯れたりして減って

しまった。当時は大野川沿いに、めん羊がよく放され、苗木を荒らされたともいわれている。

 樹齢も50年を過ぎ、例年、5月上旬には満開となる。この桜並木通りを歩行者天国にして夜の花見を楽しも

うと、桜の木をライトアップした「夜桜インおおの」が昭和63年から八年間続けられた。

 また、本郷橋から鹿島橋までの土手に、樹経30㌢ほどの若い八重桜が37本植えられている。標柱には

「平成天皇御即位記念樹」とあり、平成元年(1989年)の植樹である。

 

平成1611月吉日 大野町教育委員会

 

 

大野小学校の大欅(ケヤキ)

 

 大野小学校のグラウンド横にある欅は、明治30年(1897年)にこの学校が建てられる以前からあった自然

木といわれている。以来、素晴らしい緑の環境を与えながら子供たちの成長を見守ってきた。

 欅は、大木で広い板面が得られているので寺社などの大建築材にも使われている。材質が強く、狂いが少な

く、光沢が美しく、孝作が容易で耐久性も強いため、建築材や器具材として重宝されたため、大樹はあまり見

られなくなってしまった。

 欅は高さ17m、周囲440㎝にも達する大樹で、百年余の木として大切に育てられてきたものである。いつ

までも大切にしたい樹木である。 

 

平成1310月 大野町教育委員会

 

 

幻の大函電鉄大野駅

 

 大函電鉄とは函館海岸町と大野本郷(現在の鹿島橋付近)間に急行電車を走らせ、乗客及び貨物を運搬する

と共に、駅周辺に団地の計画をもくろんだものである。ここは「大野駅」予定地である。

 大正14年(1925年)、函館市や大野村の人が発起人となり、軌道敷設申請書を内務・鉄道両大臣に提出し

ている。昭和6年(1931年)、認可・着工にかかり、大野や函館の有志が発起人となり数万円を投入したもの

の、資材不足、用地紛争などで工事は思うように進まなかった。それでも枕木、電柱などを設置した部分もあ

り、相当のところまで進ちょくしたが完成に至らず、幻の大函電鉄となってしまった。

 本町の下町には労働者の宿舎があったが、強制労働のタコ部屋であり、外国から強制連行された労働者もい

た。

 大函電鉄の跡として、用水上へ路線を敷くためのコンクリート橋脚が大野新道沿いに幾つもしばらく残って

いたが、今はほとんどない。

 

平成1110月 大野町教育委員会

 

 

大野川 二級河川大野川水系

 

 大野川は中山峠奥の山地から発し、大野平野を貫流して上磯町で函館湾に注いでいる。上流には二股、石川、

小熊の沢などの支流が入り、国道227号とほぼ平行して流れ、延長28.6㎞、大野平野の灌漑用水や大野川発電

所に利用されている。

 もともと久根別川の上流で合流していたのが、年代とともに平野を蛇行し、久根別川から離れたものと考え

られる。わずかに湾近くで戸切地川と三つの川が合流していたが、工事により独立の川となった。

 大野川は、久根別川とともに大野平野の米作りに利用され、用水は網の目のように張り巡らされている。

 大野川の清らかな水は、米づくりのみならず他の産業開発にも役立っている。例えば、中村長兵衛が

明治8年(1875年)に創業した銘酒「大の川」は、大野米と大野の清らかな水とで醸造され、昭和初期まで続

き、「しこみ唄」で賑わったという。

 

平成1310月 大野町教育委員会

 

 

漫画家・小山内 龍

 

 小山内龍は戦前、漫画家・絵本作家として東京で活躍した。 

 小山内は明治37年(1904年)、函館市に生まれ、本名・沢田鉄三郎といい、小さいときから絵が上手で、

通夜の席で僧侶を描いていたという。17歳で船員になり、社会運動にも加わり官憲から睨まれてもいた。

 上京して独学で絵を学び、昭和6年(1931年)、「アサヒグラフ」の懸賞漫画に入選し、漫画家としてデ

ビュー。横山隆一、近藤日出造、杉浦幸雄などの「漫画集団」に属して活躍した。子供向けの絵本も描き、

昭和14年(1939年)には児童文化賞を受けている。

 戦時中、彼は戦争賛美に迎合せず、動物や虫の本を著した。代表的なのが「昆蟲放談」で、戦時中はラジオ

で放送され、4回も版を替え近代も出版されている。

 昭和20年(1945年)、空襲で戦災に遭い、家族と共に大野へ疎開したが、心臓病で翌年亡くなり法亀寺に

眠っている。昭和59年(1984年)に出版された「絵本の世界・110人のイラストレーター」で日本人14人の

中に選ばれている。

 

平成1310月 大野町教育委員会

 

 

日本聖公会大野講義所跡

 

 英国聖公会はキリスト新教の一派で、19世紀から世界への伝導を計画し、多くの宣教師を派遣した。

明治8年(1875年)、デニング司教から洗礼を受けた小川淳という人が、函館の教会から派遣されて大野村で

伝導をし、この年、ここに伝導所が建てられた。明治20年(1887年)には、米国聖公会と英国聖公会の洗礼

をくむ日本のプロテスタントとして日本聖公会が成立した。

 昭和53年(1978年)、酪農家の鈴木欽太郎さんが一枚の写真を見つけた。今の本町(川原町)で明治33

1900年)に撮影されたものらしい。それには「日本聖公会」と染め抜いたのぼりが掲げられた建物、前には

宣教師、信者、徳川農場の従業員と家族と見られる人々、そして67歳ごろの鈴木さんらが写っている。            

 

平成148月 大野町教育委員会

 

 

十月会館跡

 

 大正デモクラシーと呼ばれた時代、自主独立、よい意味での自由主義精神が、当時の青年たちにみなぎって

いた。大正12年(1923年)、この精神に基づいて会が結成され、会合は「十月会」と名づけられた。

 その顔ぶれは、中島朝雄、加藤兵之助、浪岡五十三、松代順蔵、菊池正直、菊池義尚、佐藤誠、端由太郎、

櫻庭勇蔵の9人。大正14年(1925年)523日、これらの会員の拠出によって木造二階建て62坪(205平方

メートル)が完成し「十月会館」と名づけられた。

 会員の研さんの場に充てられたほか、村の会合にも利用され、無声映画の上映や青年団の演劇上演など、村

民に広く開放された。十月会は現在のボランティア活動のはしりであり、当時の青年たちの進むべき道を示し

ていたともいえる。

 194060年代ごろは食べ物も粗末で娯楽も少なく、村民にとっては娯楽の殿堂としても多いに活用された。

昭和30年(1955年)ごろには、「にしきや大野映劇」となり、大野初の本格的な映画館として賑わったが、

パチンコやテレビの出現もあって今はその姿を消した。

 

平成148月 大野町教育委員会

 

 

大野新道

 

 明治20年(1887年)8月着工、同年22年(1889年)6月竣工開通した。

 これにより函館・江差間は、馬車、バスの通る道路へと変ぼうしたのである。

 大野、函館(亀田)間は、地盤が悪くぬかるみの谷地に砂利を詰め込むという工事であった。埋め立てる

土は函館・萩野間が西桔梗の土取場から、萩野・大野間が大中山から運ばれた。新道と西桔梗間に運河を掘り、

舟で土を運び、さらに馬モッコで各地に配られ土盛りをしていった。このようにして大野(十字街)・

函館(亀田)間は、旧道の箱館街道に比べ約8㎞短縮され、直線で約12㎞の「大野新道」が完成した。

 江差山道、大野新道によって、渡島と桧山は一連の経路で結ばれ道南の発展に大きく寄与したのである。

 

平成128月 大野町教育委員会

 

 

マルメロード 香気は王様・乙女の香りが漂う

 

 マルメロ(別名:かりん)

 中央アジア原産、春に白または淡紅色のボケに似た花弁をつける。

 果実は黄色で丸く甘酸っぱく、香り高い果実。自然の芳香剤としても最適。

 北海道では大野町が唯一の自生地。

 

寄贈:本町商店街振興会

 

 

高田万次郎と米づくり

 

 大野平野で米づくりの試作が始まったのは1600年代で、本格的に箱館奉行や民間人の手で大開田へとされた

のは文化2年(1805年)であり、いずれも時の幕府の手によるものであった。

 嘉永3年(1850年)、「稲作不適」の定説をくつがえして米づくりに成功した父子がいた。当時、村の人々

は耕作などは生活の役にたたないと考え、若者の多くは漁夫となり、山に入って木を切り、炭を焼き、あるい

は貨物の駄送を仕事としていたが、万次郎父子は寝食を忘れて開墾に励み、3年かけて畑やひえ田14反歩

を水田とし、玄米24石(60俵)を収穫した。

 幕府の指導奨励によったものではなく、万次郎親子の不朽の功績であり、大野で米がとれるという評判は

箱館近郊に伝わり、万次郎は駄送を兼業としていたが稲作指導を求められるようになり、水田経営に専念した。

 開発、その他の地区も開拓し、その田畑は253町歩にも達し、用排水の長さは60kmに及んだ。これらの功

績に対し明治25年(1892年)、大野で初めて緑綬褒章を賜っている。

 明治42年(1909年)、83歳で没した。東開発稲荷神社には万次郎らの功績をたたえて「頌徳碑」が建てら

れた。

 

平成109月 大野町教育委員会

 

 

品川弥二郎と片岡政次

 

 長州藩の下級武士の子に生まれた品川弥二郎は、えらい役職に出世したが、大野に農地を所有し、神奈川県

小田原町の士族・片岡政次を家令として農地へ派遣させたのは、明治22年(1889年)。場所はこの大野中学

校の道路の向かい側の栗沢家を中心とする土地であった。

 大野十字街から大野消防署辺りまでは、大野川の古川の跡で水溜まり。政次はこれに着目し、中学校の前の

道路側に大きな堀を堀り、次に開発まで長く掘り最後に消防付近を結んだものであった。

 知る人ぞ知る、これが二宮尊徳の二宮仕方と称するものの重大な方法であり、さすがに尊徳と政次は同国

(相模国)だけに、政次はこの技法を心得ていたものである。この二宮仕方の実現により、品川家は5町歩の

田を開発に所有することになり、開発では10人ぐらいの人が、もらい水をしたとのこと。片岡政次という人

は、われらが郷土・大野に、またおもしろい昔物語を残してくれた人である。

 

平成148月 大野町教育委員会

 

 

大野中学校

 

 大野中学校は、戦後の教育改革により義務教育の新制中学校として昭和22年(1947年)5月、大野小学校の

教室を間借りして開校した。校舎は現在の北斗市スポーツセンターの地に建てられた。体育館の蛍光灯が珍し

い時代で、その輝きは印象的であった。

 このころ萩野中学校(当時は大野中学校萩野分校)も萩野小学校を仮校舎として開校している。その後、教

育環境を整備し、より充実した教育ができる中学校を建設しようと、地域の人々が一丸となって大野と萩野の

二つの中学校の統合運動が展開された。

 開校に先立ち、大野・萩野両校の関係者が中心になって校章・校歌を制定するなど、新大野中学校の誕生に

向けて努力が続けられ、昭和494月、両校を廃校し、新たな学校として現在地に「大野統合中学校」の発足

となった。

 町民の強い願いで統合発足したため、開校後しばらくの間、「統合中学校」という名称で多くの町民に親し

まれた。統合後の「自主・連帯・創造」の開校精神は、今も生徒たちに受け継がれている。

 

平成193月 北斗市教育委員会

 

 

箱館戦争戦死者の墓

 

 光明寺の境内に箱館戦争官軍の墓が4基と榎本軍の墓が一基残っている。官軍の4基は、備後福山藩、越前

大野藩、松前藩3藩の戦死者で、一列に南面して並んでいる。

 矢不来(上磯町)より参戦の榎本軍衝鋒隊副隊長の永井蠖伸斎と網代清四郎の墓は、大きな自然石に名が並

んで刻まれていて、2人とも明治2年(1869年)429日に戦死している。

 光明寺の過去帳「蠖伸斎墓石由来記」によれば、明治34年(1901年)旧暦323日に、本堂の南面のとこ

ろに国下大雲住職と、当時出陣して存命中の岡田善治が発起人となって供養し、自然石を墓石として建てたと

いう。

 

平成410月 大野町教育委員会

 

 

光明寺

 

 光明寺は本寺函館市高竜寺7世整天喝道大和尚が明和4年(1767年)、一宇を建立し、光明庵と称したが、

天保13年(1842年)、破損せるを以って再建す。明治23年(1890年)、寺号公称して、慧日山光明寺と

なった。明治288月より3年がかりで改築し、現在に至る。

 曹洞宗。本尊は釈迦牟尼仏。境内にある地蔵菩薩は天保14年(1843年)、檀信徒有志によって寄進された。

 飛地境内地として観音山がある。文化年間(180408年)、大野・市渡・文月の三村に馬牧場があったが、

クマの被害が多く住民は困り切っていた。これを聞いた光明庵(後の光明寺)の仏母扶宗和尚が、馬頭観世音

菩薩と33体の観音像をまつり、観音堂を建立し住民の不安を除き、旦村民風雨の際の避難場所となした。

 墓地には、箱館戦争榎本軍・永井蠖伸斎、網代清四郎両人の墓。箱館戦争官軍、松前、備後福山、越前大野

三藩戦死者の墓。土佐藩北海道開拓団・杉本安居の墓。大野初代村長・神谷小太郎の墓。医師・宍戸精庵家族

の墓。内、宍戸泰庵の墓は仙台例藩主・伊達邦成の書。例江戸の漢学者・向坂吉兵衛の墓がある。

 

光 明 寺

 

 

大野山広照寺、役の行者石像、観世音菩薩像

 

 大野山広照寺は、初代住職・小野俊学が明治17年(1884年)に大野村西下町(現在地)を池田与三郎氏か

ら寄進を受けて建立した。後に、函館称名寺の住職となった小川徹竜師が、よく壇信徒をまとめて寺の基礎

づくりに努力したという。

 境内に石像が多い中で、役の行者の石像は異彩を放っている。この像は、百目木住職の主唱により建立

(大正7623日)され、たくさんの寄付者の姓名が刻まれている。役の行者は奈良時代の初期に、大和

国(奈良県)葛木山に住んでいた役君小角という呪術を使うまじない師である。

 参道の南側に33の観世音菩薩像がある。観音様と呼ばれ親しまれているこの像は、大正7年に百目木住職

の提唱と信者の寄進により実現したものである。

 

平成元年4月 大野町教育委員会

 

 

大野かんぱい  

 

 大野平野の中心部に位置し、早くから水田地帯として発展してきた大野ではあったが、水不足に悩まされ、

かつては水争いも少なくなかった。その解決のため最後に考え出されたのは大沼の水を大野平野に引くこと

であった。

 明治25年(1892年)、大野の名士たちが大沼疎水計画を北海道に持ち掛けたが、その工事費用はあまり

にも高額であったため断念。その後も亀田・七飯・大野・上磯の四か村(当時)が「大沼疎水組合」を結成

したが、洪水の心配や各村の負担問題などに異論が出され、解散した。

 先人が成し遂げることができなかった大沼疎水事業も昭和25年(1950年)、四か町村長から北海道庁に

対して「総合灌漑排水事業陳情書」が提出され、ようやく国営事業として採択された。そして昭和53年まで

28年間の長い年月を経て完了をみたのである。

 この間、事業の実施をめぐって大小の計画変更が幾度も行われ、何度も暗礁に乗り上げるなど正に波乱と

曲折であった。大野かんぱい事業は関係者の血のにじむ苦悩の歴史でもあったと言えるのである。

 

平成193月 北斗市教育委員会

 

 

道立道南農業試験場

 

 道南農業試験場は、その沿革をたどると、安政5年(1858年)、箱館奉行所が七飯村に薬草園を置いたの

が始まりで、その後、北海道開拓史が七重勧業試験場を明治3年(1870年)から明治27年(1894年)9

まで設置した。一時足跡が途絶えたが、15年後の明治42年、北海道としては温暖で、農耕期間も長い道南

地方の大野村の現在地に、道南農業の発展と確立を期して北海道立渡島農事試験場が設立され、いくつかの

変遷を経て今日に至っている。

 現在、約11haの敷地には、圃場や庁舎、施設園芸技術研究ハウス、さらに試験研究をするための実験室、

調査室、環境制御温室などの施設が完備され、園芸科、作物科、土壌肥料科、病中科などでは、それぞれの

地域の研究ニーズに基づいた試験研究を進めている。

 正面入口の古い建物は、大正8年(1919年)建築の「会議室」である。一方、庭の大木は、道南では珍し

い推定樹齢80年の「ユリノキ」(学名 Liriodendron tulipifera L. 自生地は北米大陸)で、両者が昔を忍

ばせている。

 

平成410月 大野町教育委員会

 



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