=上磯のセメント工場=
明治6年(1873年)、官営の摂綿篤(セメント)製造所が東京の深川(伊達家の屋敷跡)に創設。
明治8年(1875年)5月19日、日本で初めてセメントが造られた。当時はセメントについて研究するにも
参考となる資料もなく外国人技師に聞いても多く学ぶことのできない時代であった。
明治16年(1883年)、官営深川セメント工場にコークスを納める商人として出入りしていた浅野総一郎が
払い下げを受ける。
その翌年、上磯でセメント製造が試みられた。
=上磯セメント時代=
明治17年(1884年)渡島王と言われた網元、種田金十郎により上磯にトックリ窯のセメント製造が始められた。5年ほど続いたが、予定した
製品ができずに失敗したのを函館の吉川泰次郎、園田実徳らが、種田の借財を肩代わりして、その権利を受けて会社経営をした。
(『日本セメントの沿革』)
明治5年(1872年)、ケプロンの推挙により地質兼鉱山師長として日本に招かれた、ライマンによる石灰
石鉱山(峩朗鉱山)発見を受けて、明治17年(1884年)、地元の有力者である種田金十郎が当時の建築技術
最先端をいくセメント工場を資本金5万円で創設。
上磯で造られていた煉瓦を積み、徳利窯を作り、峩朗から工場までトロッコ線を敷いた(そのため今でも
桜岱方面の道を「トロッコ道」というそうである)。
しかし、セメントの製造法が国内でも周知していない状況の中で、経営不振に陥ってしまった。全国的に
もこの頃、上磯セメントのような失敗例は石灰岩の採れる地域で見られるが、その中でも、上磯セメントは
最も早い方であろう。
そもそもセメント(ここではポルトランド・セメント)が発明されたのは1824年(文政7年)のイギリス
のことであり、そして、フランス、ドイツ、イタリア、アメリカに伝わったのは19世紀後半期であるため、
日本のセメント界ほど急速な進歩はないと言われている。
日本においてセメントの需要が安定してきたのは、明治24年(1891年)の濃尾大震災において、洋風建築
として普及していた石灰モルタル積みの煉瓦造りよりセメント建築の方が、はるかに安全性があると証明さ
れてからである。
また、大正12年(1923年)の関東大震災において、セメント需要が増加し、安定傾向に入ったことを考え
れば、上磯セメントはやはり時期尚早という感が否めない。
=北海道セメント株式会社=
明治23年(1890年)4月10日、上磯セメントの経営不振による借財を肩代わりし、吉川泰次郎、園田実徳
が北海道セメント株式会社を設立。資本金20万円。社長は浅野セメントと合併するまで阿部興人が就いて
いた。
発起人や株主は在京の実業家や官僚と函館の豪商たちで占められていた。地元上磯の内海三貞、平野浅吉、
関屋八太郎、そして上磯セメントを設立した種田金十郎も含まれている。
北海道セメント会社の第1回実際報告(明治23年分)によれば、原料である石灰石の出産地峩朗から工場
までの道路整備が一番苦労したとある。
峩朗鉱山は明治22年(1889年)に高橋文之助が発見、試掘出願許可を得たものであるが、明治24年(1891年)
に4,000円で北海道セメント会社がその権利を譲り受けている。
また原料の粘土は、谷好村の桜岱、三好野、富川野の3か所を選定し、村民から土地を購入した。当初、
北海道セメント会社ではセメントともに煉瓦を製造する計画であり、三好野、富川野については煉瓦用の粘
土として考えられていた。しかし、煉瓦は何度も試作されたが価格や品質の問題があり、結局、工場建設に
は泉州の堺から煉瓦が輸送されて使用されることになった。
工場の設計は中沢岩太、高山甚太郎両工学博士に委嘱した。高山甚太郎は農商務省で技師であり、ドイツで
セメントの製造技術を学んだ人物である。ここで、我が国最初のホフマン式輪窯を輸入し、年間操業日数350日、
日産90樽、年産3万樽を見込んだ。しかし、窯の操作や火の焚き方に慣れるまで失敗の連続で、丸2年は計画
通り進めることができなかった。
−沿革−
明治23年 |
1890年 |
4月 |
北海道セメント株式会社設立 |
明治24年 |
1891年 |
|
峩朗鉱山試掘の権利を4,000円で譲り受ける。 |
明治27年 |
1894年 |
|
営業開始 |
明治30年 |
1897年 |
|
初めての株主配当。資本金も36万円に増額、年産も12万樽に引き上がった。 |
明治37年 |
1904年 |
|
労働者半数を解雇。 |
峩朗採掘場と工場とを結ぶ馬車鉄道を開通。 |
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明治40年 |
1907年 |
|
私設電話設置 |
従来の開業医嘱託制から専属医を招き、医務室を完備。 |
|||
明治42年 |
1909年 |
8月 |
後藤逓信大臣一行がセメント会社を視察。 |
|
上磯で最も早く、電柱・電線(路)がセメント工場に敷設。 |
||
大回転窯をドイツから輸入。日本で初めての回転窯を採用。 |
|||
明治43年 |
1910年 |
|
動力変更による古い機械一式を、留萌電燈株式会社が1,160円82銭で購入していった。 |
明治44年 |
1911年 |
8月 |
皇太子(のちの大正天皇)が、セメント会社を視察したいという意向を伝えに使いの者がセメント会社を訪問。しかし、明治天皇の崩御(明治45年7月30日)のため、視察は実行されなかった。 |
10月 |
東京上野公園美術館で行われた第二回窯業品共進会において、ポルトランド・セメントが金牌を受賞。 |
||
大正2年 |
1913年 |
6月 |
大阪で開催された拓殖博覧会で名誉賞を受賞。 |
大正3年 |
1914年 |
|
債務支払不能に陥る。大株主協議会を数回開き、小野田セメントとの合併をも試みたが成功せず。 |
大正4年 |
1915年 |
|
浅野セメント株式会社に吸収合併。 |
上磯で造られた優良なセメントは明治時代から全国各地へと輸送された。
販売店も本道に限らず、樺太、奥羽、信越をはじめ数十か所に及んでいた。
=小野田セメントとの合併問題=
一時小野田セメント会社との間に合併談が進捗し、九分九厘まで交渉成立の段取りにまで進んだが、結局、
井上馨(小野田社の相談役)の反対に会い不調に終わった。
明治42年(1909年)に日本ポルトランド・セメント同業会が設立され、ここには、北海道セメントはもち
ろん、浅野・小野田の両雄セメント会社も入っており、セメント業界の一本化が考えられている風潮の時代
であったことと、大正3年末期には、すでに第一次世界大戦が勃発し、セメント業界にもようやく明るいき
ざしが見えた時代に、この合併不成立には何かの要因が潜んでいると考えられる。
=上磯丸=
上磯・函館間に鉄道が開通した大正2年(1913年)以前は、セメント・煉瓦や諸材料の運搬には海路が主
に使われていた。
北海道セメント株式会社が設立して間もない頃は、アフガン号のように、函館の回漕店の船を利用する
ことが多かった。
明治28年(1895年)11月、蒸気船である上磯丸が、函館・上磯間を1日3往復するようになった。上磯丸
ははじめ函館の和田回漕店の経営船であったが、のちに北海道セメント会社所有の船となる。
明治30年頃の「函館新聞」広告には、乗船賃金25銭(往復)で、毎日、函館から午前5時、午前11時、
午後4時の3回運航し、行き先は上磯セメント会社前とある。
昭和初期に活躍した渡島丸や桧山丸のように大型船ともなれば海難事故は少ないが、この頃は、運搬に
使われた平田艀の事故が非常に多かった。
上磯丸は明治41年(1908年)に第二上磯丸ができるまで激務に耐え、上磯・函館間に鉄道が開通すること
が決まった明治44年(1911年)に売却されることが決定。
大正元年(1912年)8月28日、売却先が決まった。
=浅野セメント株式会社=
−沿革−
大正4年 |
1915年 |
7月25日 北海道セメント株式会社と浅野セメント株式会社が合併。 工場は浅野セメント北海道支店株式会社と改称。峩朗鉱山も浅野セメント株式会社北海道工場峩朗採石場と名称変更。 |
大正5〜6年 |
1916〜7年 |
創業以来の輪窯3基を廃棄し、石灰窯を新設。 従来の原石焼成法を生灰焼成法に転換。 旧工場の改造を併行して第2工場建設。 |
大正6年 |
1917年 |
職工住宅10棟増築。 |
大正8年 |
1919年 |
セメント会社の倶楽部が建てられる。 |
大正11年 |
1922年 |
工事が完了し、吸収当時の年間生産能力7万2,000トンから18万トンへと急伸。 |
大正12年 |
1923年 |
専用の電気鉄道が峩朗採石場の山元から工場間に完成。 |
大正14年 |
1925年 |
年間生産能力24万トン。 |
大正15年 |
1926年 |
9月7日 降灰問題に関して、農民側から会社に対する損害賠償請求事件和解申立書が裁判所に提出される。 |
生活必需品を安く売る物品購買施設を設立。 |
||
昭和2年 |
1927年 |
会社側が今までの損害に対し6,000円、さらに毎年2,000円出すことで降灰問題は一応の解決を見る。 |
秋葉神社内に職工用倶楽部(北扇会館)設立。 |
||
昭和8年 |
1933年 |
第3工場(湿式法)が完成。年間生産能力が40万トン台に。 |
昭和9〜10年 |
1934〜5年 |
防灰設備完成。 |
昭和11年 |
1936年 |
電気鉄道6号機関車完成。 |
昭和19年 |
1944年 |
4月 セメント工場が愛国三一一工場として軍需工場に指定。標的になりやすい建物であるが、機関銃1発を浴びただけでほとんど無傷であった。 |
北海道工場から上磯工場に改称。 |
||
昭和22年 |
1947年 |
財閥解体促進により浅野セメントもその指定を受け、財閥役員追放。 日本セメント株式会社と社名を変更。日本セメント上磯工場となる。 |
峩朗鉱山原石の運搬(大正中期頃) 電気鉄道による原石の運搬(明治初期。峩朗石灰石採掘場)
=倶楽部=
大正8年(1919年)、セメント工場正門前を山手に向かってすぐのところにセメント会社の倶楽部が建
てられた。
1階には応接室、球技室、囲碁室、便所、洗面所などがあり、2階には集会室兼食堂、配膳室、談話室
があり、本社および関連会社などからの来客に対する場として利用されていた。
広さは1階が74坪余、2階が48坪余の計122坪余あり、昭和になって内部の改装が行われ球技室などはな
くなったが、不燃材を使用した外壁は当時のままである。
昭和2年(1927年)、秋葉神社内に職工用倶楽部(北扇会館)設立。娯楽用の他に女性のための授産的
設備、さらには手芸の一部も教授できる集会所のようなところもあった。
=降灰問題=
大正15年(1926年)9月7日、降灰問題に関して会社側と農民側の紛争後、農民側から浅野セメント株
式会社に対する損害賠償請求事件和解申立書が裁判所に提出される。
しかし、この和解も事実上成立しなかった。工場で冷却用に使う水路を農民側が差し止めたり、会社
側の水利権は同等であるという主張に農民側が水路の流れる装置を完全に破壊したりしたため、根が深
い問題となっていたのである。
困り果てた会社側だが、水無澤の水を使ったり海水を使ったりしながら、生産を続けた。茂辺地川の
水を利用する計画もあった。
結局、この紛争は昭和2年(1927年)、会社側が今までの損害に対し6,000円、さらに毎年2,000円出
すことで一応の解決を見ることになった。
=北支(那)セメント会社勤務の話=
昭和6年(1931年)の満州事変後、日本が満州国を建立して東アジアでの植民地支配を進めていた頃、
浅野セメントでは北支那(中国)の太原にセメント区お嬢を設立した。
昭和13年(1938年)2月26日の「渡嶋上磯新聞」には、北支セメントへ行けば、給料が倍増して、さら
に1日14円の手当が付き、1万円の保険も付けてくれるとある。
この頃は、もり・かけそば1杯8銭〜10銭、ビール20銭の時代である。なぜそのような良い待遇である
かという説明も次のとおりにある。
北支セメントの工場は、山西省の太原を去る二里ばかり離れた所で、事変前は支那のなんとか洋灰公司といったものを日本軍が占領
したもので、之を運転するために行く決死的職工である。無論詳しくは判らぬが、今でも時折敗残兵が出没するらしく、日本から行く
職工たちは太原の市内に居住し、毎朝トラックで工場へ通ふ。工場へ行く時は、トラック上に装置しめる機関銃を発射しつつ進み、夜
分に工場へ匪賊だの敗残兵が忍び込んでいるか否か確かめて、それから工場に入って就業するとかのことである。
非常に危険なところとはいえ、1か月500円、1年では5,000円以上にもなるこの話は、職工たちの間で
は話題となり、10名余りの職工が北支セメントへ上磯から向かったということである。
=日本セメント株式会社=
−変遷−
昭和21年 |
1946年 |
浅野セメント工場上磯工場峩朗労働組合が結成される。 |
昭和22年 |
1947年 |
昭和最大の雇用、従業員786名。戦後の混乱の中、雇用率高。 |
社名を「日本セメント株式会社」に変更。 |
||
昭和23年 |
1948年 |
峩朗砿業社解散 峩朗砿業所は工場へ復帰する。 |
電気鉄道7号機関車完成。 |
||
昭和24年 |
1949年 |
大労働争議 従業員700人台を切る。 |
暴力事件(蛇事件)発生。 |
||
日本セメント上磯工場従業員主婦一行が、主食の掛売について陳情する。 |
||
昭和25年 |
1950年 |
峩朗小学校に、工場から15万円寄付。 |
レッドパージにより上磯工場でも、6名を指名解雇する。 |
||
昭和27年 |
1952年 |
我国初の全溶接回転窯を設置 |
電気鉄道8号機関車完成。 |
||
昭和28年 |
1953年 |
第3号窯竣工式。松永通産局長、桑原開発庁産業課長、北田渡島支庁長、町長を交え、盛大に挙行される。 |
昭和29年 |
1954年 |
粘土輸送のため、万太郎澤線開設。 |
昭和30年 |
1955年 |
セメント工場事務所落成。 |
西社宅新設(元谷好260)。 |
||
谷川小改築費として、セメント工場より200万円寄付。 |
||
昭和31年 |
1956年 |
従業員600人を切る。 |
昭和32年 |
1957年 |
共同鉱業権問題起こる。 |
峩朗鉱山において、グローリーホール採掘法から階段採掘法へ切り替え。 |
||
広報で、日本セメントのオートメーション化を紹介。 |
||
昭和33年 |
1958年 |
町有石灰石採掘権、日本セメント社と共同権に。最終議会で可決。 |
皇太子(現今上天皇)セメント工場御視察。構内では、日の丸の小旗を手にした従業員家族が奉迎、御見学は予定の時刻に終えられ、町民そろってお送り。 |
||
昭和34年 |
1959年 |
峩朗鉱山機械化(合理化)。 |
希望退職および配置転換実施。退職希望者32名に対し33名が退職。 |
||
電気鉄道9号機関車完成。 |
||
昭和35年 |
1960年 |
北扇会館と命名(講堂、浴場など)。 |
昭和36年 |
1961年 |
石灰焼成から重油焼成に変わる。 |
峩朗採掘所従業員 峩朗社宅から工場社宅へ移転。 |
||
電気鉄道10号機関車完成。 |
||
昭和37年 |
1962年 |
賃上げ闘争で12年振りに全面スト。 |
昭和38年 |
1963年 |
6号回転窯増設(湿式マンモスロングキルン)。 |
昭和41年 |
1966年 |
石炭から重油焼成に転換。 |
昭和42年 |
1967年 |
従業員、500名を切る。 |
昭和45年 |
1970年 |
セメントタンカー積用出荷桟橋新設。7号窯増設。 |
昭和46年 |
1971年 |
昭和アパート新設。 |
昭和47年 |
1972年 |
セメント製造工程、PCCシステム導入。 |
ディーゼル発電設備(2万9,000キロワット)新設。 |
||
工場直営の理髪所廃止。 |
||
昭和48年 |
1973年 |
共同鉱業権等問題解決。 |
峩朗鉱山、工場間の石灰石の輸送がベルトコンベヤー(Gルート6.2km)に。 |
||
8号窯増設 |
||
昭和50年 |
1975年 |
昭和社宅、廃却。 |
昭和51年 |
1976年 |
上磯興業株式会社、添山採掘株式会社を設立する。 |
昭和52年 |
1977年 |
町と日本セメント株式会社との土地売買問題4年振りに円満解決する。 |
従業員、ついに400名を切る。 |
||
昭和53年 |
1978年 |
谷好社宅廃却。 |
峩朗鉱山戸切地立坑開削(月産生産能力46万トンになる)。 破砕設備増設。 |
||
昭和54年 |
1979年 |
飯生アパート新設。 |
昭和55年 |
1980年 |
電気鉄道1、3号機関車廃車、スクラップ解体。 |
秋葉社宅廃却。 |
||
再び石灰焼成に転換。石炭混焼設備運転開始。 |
||
昭和56年 |
1981年 |
中近東、アメリカ向け輸出開始。 |
昭和57年 |
1982年 |
バラセメント大型輸出船沖積み開始 |
昭和60年 |
1985年 |
4号窯、5号窯廃棄。 |
従業員、300名を割る。 |
||
昭和62年 |
1987年 |
海上桟橋、400メートル延長、総延長は2,000メートル。今までの1万トンクラスから6万トンクラスの着船可能に。 |
昭和63年 |
1988年 |
国内で2番目に古い電気機関車、セメント工場から寄贈され、運動公園に展示保存。 |
関東向骨材製造開始(月産能力58万トン)。 |
||
平成元年 |
1989年 |
セメント輸出設備新設。 |
専用電気鉄道廃止、粘土輸送はトラックとなる。 |
||
平成2年 |
1990年 |
日本セメント上磯工場創立100周年記念式典行う。 |
従業員数250名。 |
||
セメント生産年間数量360万トン。鉱山において年間出鉱量518万トン。 |
||
平成5年 |
1993年 |
石炭焚自家発電設備を新設。 |
骨材出荷増に対応するため、海上桟橋にベルトコンベヤーを増設。 |
=セメント労働争議=
上磯暴力行為事件(蛇事件)は、アメリカの雑誌「ライフ」にも取り上げられ、世界的にも有名に
なった。昭和24年6月22日の個人馘首通知以来、会社側は団交拒否を続け、憤慨した
青行隊を中心とする一般組合員および婦人部が6月30日、事務所に4課長を囲み、馘首保留と撤回を要求
する団体交渉に持ちこみ、その際組合員がヘビをテーブルの上に投げこむという事件であった。
−昭和24年の労働争議の流れ−
2月15日 |
日本セメント労働組合は従来の連合組織から単一組合に変更。上磯工場でも日本労働組合上磯支部と改称。 |
工場分会、峩朗分会をもって上磯支部となった。昭和21年以来の賃金スライド方式に関する問題が再燃。 |
|
2月18日 |
食糧デモ行進 |
2月26日 |
会社は「組合の名称変更即ち労働協約無効」を宣言。 |
3月 3日 |
日本セメント労働組合上磯支部では超過勤務拒否、日曜出勤拒否の闘争手段を採用。 |
3月25日 |
24時間抗議ストライキを決行。 |
4月1日 |
組合員主婦70人、工場長に面会を求め、事務所へ押しかける。 |
4月7日 |
会社側、スト対抗手段として臨時休業を宣言する。 |
4月8日 |
上磯工場、全面的に操業中止。 |
4月15日 |
上磯工場、生産管理禁止の仮処分決定を函館地方裁判所から受ける。 |
4月16日 |
労働組合上磯支部がセメント生産管理を実施。 |
4月17日 |
工場長より上磯町長に対し、仮処分執行立合を依頼。 |
4月18日 |
会社側、仮処分執行。 |
4月21日 |
町側が会社側から争議の事情を聴取し、23日には、町長、議長が、日本セメント労組から事情を聴取する |
4月27日 |
議員協議会で、落合平三郎町長および町議会代表の金沢武雄、岡田鶴松、長谷茂男、岡田哲夫によってセメント争議に対し調停することで意見が一致。地労委斡旋するも不発に終わる。 |
5月11日 |
裁判所の命令で、工場生産再開し、19日より火入れ運転することになる。 |
5月19日 |
工場再開、火入れする。 |
5月23日 |
午前7時より第2次抗議ストライキ(24時間)を決行、会社側は無期限の工場閉鎖を断行。 |
5月30日 |
会社側、経営合理化案(馘首)発表。上磯工場では114名。過剰人員は工場42名、工鉱員72名であった。 |
6月8日 |
会社側、中労委、裁判所、監督官庁その他の圧力によりロックアウトを解除すると提案。 |
6月22日 |
上磯工場従業員出勤。 |
経営合理化案における個人宛内容証明郵便で解雇を通告。 |
|
6月30日 |
暴力行為事件(蛇事件)発生。組合幹部13名の検束拘引あり、内2名が起訴。 |
7月11日 |
日本セメント工場従業員主婦一行が、主食の掛売について陳情。 |
7月25日 |
上磯町長、議会議長は、会社、組合両者に三者間話合いを申し入れる。 |
8月10日 |
上磯工場企業整備による事態収拾に関する協定書に午後3時調印。争議解決する。 |
8月15日 |
日本セメント上磯工場が平常運転を再開し、争議は一応、終止符を打った。 |
昭和50年代の日本セメント工場の一部分 創立当時のものと思われる建物