=開拓使茂辺地煉化石製造所=

 

発掘された煉瓦窯跡   茂辺地の煉瓦場跡遠景

   発掘された煉瓦窯跡         茂辺地の煉瓦場跡遠景

 

 明治5年(1872年)、228号線を茂辺地中心部から500メートルほど函館へ戻った丘陵地に開拓使唯一の

煉瓦工場である茂辺地煉化石製造所が建てられた。

 

※明治5年は開拓使の工業分野の建造物が多く、ほぼ同時期、函館上湯の川に石灰製造所、七重村に製紙工場が建てられて

 いる。

 

 函館は大火の多いところとして知られ、建物の不燃質化対策としても煉瓦は非常に重宝されていたので、

煉化石製造所は期待をもって建てられたと言える。

 建設直前にも、榎本武揚による北海道鉱山検査巡回(開拓使四等出任)において、茂辺地の煉瓦土の有効

性が再確認されている。

 

 生産中止をした明治9年(1876年)までを前期とし、生産再開した明治11年(1878年)からを後期とする

と、現在函館に残っている茂辺地煉瓦の建物2つ(「旧開拓使函館支庁書庫」および「市立博物館郷土資料館」)

は両方とも後期製造のものである。

 

=茂辺地の粘土と煉瓦=

 元々、茂辺地地区は粘土が豊富に採れるところとして古くから知られていた。

 日本における煉瓦の草創期である弘化4年(1847年)、能登国の瓦師・金子利吉が、茂辺地村で粘土を

発見し、瓦を造った。

 陶工・岩治が官金500両余を借り、文久元年(1861年)から2年間に3万枚の煉瓦を茂辺地で製造した。

 また幕府の命令を受けて尾州の陶工・本多圭次郎が陶器を製造。

 茂辺地は幕末から窯業の主要地として位置付けられていた。

 

=明治5年〜明治9年(前期)=

 茂辺地村の粘土と戸切地村の砂を原料にし東京で採用した技術者と職工、計22人で初年度から数万本

以上の煉瓦を製造した。

 煉瓦とともに瓦も生産していた。

 完成した製品は馬搬で急坂を下り、茂辺地市街を挟んで反対側の海辺まで運び、はしけ積みして函館に

送り、そこから各地へ輸送した。

 外国人技術者が1人もおらず、初期製造の煉瓦は生産技術に乏しく品質が粗悪であった。

 明治6年(1873年)、茂辺地煉瓦で建設中の函館常備倉は煉瓦積みが終了する前に寒さのため崩れてし

まうこともあった。翌年も、豊川町の煉瓦倉庫などが建てられた。

 

=明治9年、生産中止=

 明治9年に生産中止をした理由には輸送費の問題がある。開拓使の建築物がある札幌まで煉瓦を輸送する

ときわめて高価となる。

 では函館においての需要はといえば、製造物を維持するほどなかった。

 それで生産中止を決定し、その施設の管理を森兵五郎に託し、いったん閉鎖するのである。

 

明治7年から11年にかけての煉瓦

明治7年から11年にかけての煉瓦

 

=明治11年〜明治14年(後期)=

 明治10年(1877年)は全くの閉鎖状態であった。

 明治11年(1878年)、東京に開拓使物産売捌所がつくられることになり、生産を再開。

 この物産売捌所は北海道のビールや缶詰、海産物を展示したり、取引したりするところであり、その

ためその建物にも道産の煉瓦や瓦を使おうということになった。

 明治111月、東京へ送付された8万本の煉瓦は、非常に粗悪品であった。前期煉瓦の売れ残り品で、

厳しい冬に耐えきれず欠損した物が多かったためである。

 ここで、東京産の煉瓦を使用する話もあったが、東京製品の4倍強も価格が高いことを承知しながらも、

道産品を使用することが決定され、煉化石製造所は生産を再開した。

 

 明治11年(1878年)4月、東京からの指示は、煉瓦15万本と屋根瓦8,950枚の供給であった。明治9

末の休業で施設はかなり荒廃し、職人たちも他地域に移っていた。指導者もいないという状況のため、

東京で煉瓦石職人長谷川直吉ほか2名を雇い入れ、工場へ派遣した。

 長谷川らは、東京からの指示通り、明治11年末までに約20万本の煉瓦を焼き上げた。

 この生産再開後の煉瓦(後期煉瓦)は長谷川らの技術の高さもあるが、煉瓦窯を新しくしたこともあり、

良質で、東京での評判も非常に良かった。

 また明治12年(1879年)7月、茂辺地製造所を視察した札幌農学校教員ブルックスらも、煉瓦について

は良品・良質と絶賛したとある。

 

=生産中止=

 原料および燃料の確保に問題があり、明治12年に開拓使によって計画された1億本製造計画も廃案と

なり、開拓使は政府の方針である官営工場の民間払い下げの方針により、施設を廃止。明治9年(1876年)

の生産中止のときにも託した森兵五郎に貸与した。

 

 当時の煉瓦1本当たりの値段は約2銭。

 茂辺地煉化石製造所産のものには函館製造と刻印されていた。

 煉瓦は道内をはじめ、東京や千島列島にまで送られていた。

 

屋根瓦の刻印

     屋根瓦の刻印



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