=川田龍吉=
-年譜-
安政3年 |
1856年 |
高知杓田村に生まれる。 |
明治7年 |
1874年 |
上京、慶応義塾入塾。 |
明治10年 |
1877年 |
渡英、グラスゴーレンフリュー造船所へ機械技師見習いとして入る。 |
明治11年 |
1878年 |
グラスゴー大学工学部に学ぶ。 |
明治17年 |
1884年 |
レンフリュー造船所を退き帰国、三菱製鉄所入社。 |
明治18年 |
1885年 |
日本郵船会社出行。 |
明治21年 |
1888年 |
楠瀬春猪と結婚。 |
明治29年 |
1896年 |
横浜船架を創立、社長に就任。父小一郎死去により男爵を継ぐ。 |
明治34年 |
1901年 |
ロコモビル蒸気自動車を購入。日本のオーナードライバー第1号となる。 |
明治35年 |
1902年 |
横浜船架会社退社、軽井沢で農園を開く。 |
明治39年 |
1906年 |
函館船架会社専務取締役就任。 |
明治40年 |
1907年 |
北海道七飯村に農場を入手、馬鈴薯の試作を開始、原種名「アイリッシュ・コプラー」が好成績をおさめる。のち「男爵薯」と名付けられ全国に普及。 |
明治42年 |
1909年 |
4月、川田龍吉が茂別村大字石別村当別に1,428町歩の山林を取得。 |
大正元年 |
1912年 |
この頃、渡島当別に「川田農業試験場」を開設。酪農、畑作、林業の技術改良を行う。 |
9月頃、地元の有力者である岡本忠蔵、山本三郎らと出資して「川岡組」設立。当別山林の経営にあたった。 |
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大正2年 |
1913年 |
恒産組設立。回漕部を設けて、函館~木古内間に航路を開く。 |
8月、川田龍吉が函館ドックで第一当別丸を建造。木造27.79トン、30馬力。運航圏内は函館~当別~泉沢~札苅~木古内~涌元方面。 |
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大正3年 |
1914年 |
第二当別丸建造。29.98トン。 |
大正4年 |
1915年 |
11月、第三当別丸建造。47.63トン。 |
大正9年 |
1920年 |
10月、第五当別丸建造。51.02トン。 |
昭和10年 |
1935年 |
この頃、農業指導のため道内各地を歴訪。 |
昭和14年 |
1939年 |
妻春猪死去。 |
昭和23年 |
1948年 |
トラピスト修道院で洗礼を受ける。洗礼名「ヨセフ」。 |
昭和26年 |
1951年 |
渡島当別において死去。享年95歳。 |
恒産組の事業は林業、農業、海運事業をはじめ多岐に渡っていた。外国に様々な種苗を発注していて、
オーストラリアからアカシナ、ユーカリ、クワノキなどを、その他アメリカ、イギリスなどからも花の
種子を輸入していた。昭和初期には杉の大造林地をつくろうとしたり、薪炭林を搬出したり、恒産組は
名を恒産組殖産株式会社に変えたものの、順調で大規模な経営を行っていた。恒産組という名は戦後も
恒産組殖産KK(川田吉也が代表取締役)として残っている。