=大函電鉄=
-沿革-
大正14年 |
1925年 |
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大野電軌株式会社設立。 |
昭和3年 |
1928年 |
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鉄道省より敷設特許の指令が下りる。 |
昭和4年 |
1929年 |
6月 |
大野電軌発起人代表中村長八郎が、札幌在住の丸山誠吾に軌道事業の権利を譲渡すると同時に、丸山は社名を「大函急行電鉄」と改称。 |
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起点が万代町に移動し、五稜郭駅函館本線との接続を計画していた。終点は本郷で、大野電軌より距離が短くなる。 |
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昭和5年 |
1930年 |
2月 |
会社設立の動きがあり、発起人に平出喜三郎、嵐金三郎ら25人が名を連ね、創立委員長に守田岩雄が選出。事業計画、定款の決定、株の一般公募が開始された。 |
4月 |
4月5日、札幌で創立総会が開会。「大野電鉄株式会社」と称し、創立委委員長の守田岩雄がそのまま社長に就任。 |
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5月 |
5月30日の「函館毎日新聞」に「大函急行電鐵會社」が客車5両と貨物車7両を購入することが掲載された。 |
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6月 |
6月13日の「函館毎日新聞」に「大函電鐵に紛擾起る」という見出しが登場。 |
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7月 |
急行化反対運動により、上磯町会議員嵐金三郎、函館市海岸町佐々木市松の両氏は、地主、小作人30数人を代表して大函急行電鉄に決議文を出し、内務大臣、鉄道大臣、北海道庁長官に提出。 |
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昭和6年 |
1931年 |
1月 |
大函電鉄が申請していた、函館市海岸町と七飯村を結ぶ大沼電鉄の敷設申請却下。 |
2月 |
大函急行電鉄は急行化の認可を受け工事を進める。 |
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所有権妨害の損害賠償請求の訴えが出される。 |
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4月 |
株主総会を開き丸山誠吾専務取締役の解任、業務調査のために臨時業績検査委員会の設置など、会社立て直しが図られた |
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5月 |
軌道工事を請け負った業者が、工事を妨害したとして大野村の木村正夫ら2名を相手に損害賠償の訴えを起こす。 |
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6月 |
丸山誠吾が辞任無効確認の訴訟を起こし、会社内部の亀裂が表面化。 |
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12月 |
社長が守田から百瀬彦市に交代。会社の立て直しを図ったが、工事は相変わらずはかばかしくなかった。 |
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大野村の小林万五郎ほか9人が所有する土地を会社が購入したが、代金不払いのため訴訟が起こされ、軌道を撤去し復元のうえ返還せよという地裁の判決が下った |
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昭和7年 |
1932年 |
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路線変更。五稜郭駅での鉄道接続を諦め、国道を北上する当初の計画に戻す。 |
昭和10年 |
1935年 |
12月 |
敷設工事は国道の一部を使用しているため交通障害の源泉とされて、市民が警察に陳情する事態となる。 |
昭和11年 |
1936年 |
9月 |
平塚常次郎など地元有力者が経営に参加。社名を函館急行鉄道株式会社と改め、人心を一新しようとした。 |
第一期工事が年内完了の見込みとなる。 |
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昭和12年 |
1937年 |
2月 |
鉄道省は指定期間内に敷設工事が着工しないという理由で、大函電鉄の免許を取り消した。 |
=大野電軌株式会社=
大正14年の特許申請書類「企業目論見書」から大野電軌の路線を知ることができる。起点は函館市海岸町
で、終点は字市渡の中心街、国道227号線江差山道入口。ここは現在十字路だが、当時は三叉路で北進する
と本郷駅へ通じ、左折すると江差へ向かう位置であった。路線の大部分が道路を走る併用軌道、つまり路面
電車で総延長は16.3kmである。駅の数は16か所だが、設置場所は不明。
大野電軌が申請した軌間は「四尺六寸」(1,372mm)で、函館水電の経営する函館市電も同じであり、接続
を念頭に置いていた。
=大函急行電鉄株式会社=
昭和4年6月、大野電軌発起人代表中村長八郎が、札幌在住の丸山誠吾に軌道事業の権利を譲渡すると同時
に、丸山は社名を「大函急行電鉄」と改めた。
大野電軌は基本的に路面電車だが、大函急行電鉄は「急行」であり、運行時間の短縮、利用者の増加をねら
うものだった。
事業目的が輸送業務に加え、住宅地分譲、倉庫、自動車輸送、電気販売など鉄道事業に付帯して多岐に渡る
ものとなり、大野電軌とは大きく変化している。
大函急行電鉄設立当時の社長守田岩雄は桔梗の広大な所有地を開放して、釣堀、野球グラウンドなどの娯楽
施設を計画していた。この地は現在の函館市流通センターである。
軌間は大野電軌の函館市電と同規格1,372mmから、鉄道と同規格1,067mmに変更した。
起点は、函館市電が延長されたことから大野電軌よりやや北の万代町に移動し、五稜郭駅までは道路との併
用区間とし、同駅函館本線との接続を計画していた。終点は本郷が終点となり、大野電軌より距離が短くなる。
当時考えていた停留所は「函館(万年橋)」から「南本郷」まで12か所。
函館(万年橋)-北五稜郭-石川-山崎-新七重浜-浜分-渡島追分-萩野-千代田-大野口-大野-南本郷
=急行化問題=
昭和5年6月13日の「函館毎日新聞」に「大函電鐵に紛擾起る」という見出しが登場した。その内容は、
この鉄道の開通による近隣町村の発展を考慮し、各地の地主がこぞって用地を寄付したが、契約と違うことか
ら会社に対して寄付した軌道用の土地を返還するよう請求したので、工事開始が不可能になったというもので
ある。耕地の縮小や肥料の運搬などへの障害、さらに高速化による事故の懸念を理由に急行化反対の運動が起
こった。
昭和5年7月、上磯町会議員嵐金三郎、函館市海岸町佐々木市松の両氏は、地主、小作人30数人を代表し
て大函急行電鉄に決議文を出し、内務大臣、鉄道大臣、北海道庁長官へも提出した。嵐は「会社の利益確保の
上から急行電鉄は株主としては賛成だが、本来は地方開発と産業発達が眼目であったために、株主となり土地
の無償提供を申し出たのであり、会社が自己の利潤のみ追求し、農村やそこに住む人々を顧みない行為には断
じて反対せざるを得ない」と述べている。
決議文の趣旨は、
「会社は認可当時の計画による軌道を大野新道中央に敷設すること」
「急行専用地の寄附および買収に応じない」
しかし、その後も電鉄側は建設に向けて準備を進め、施行上必要な国道の占用許可願いを提出したり、停留
所の位置を定めたりした。利用状況の推定は、1日の発送貨物量46.7トン、乗降旅客数664人としている。
停留所については、起点の万代町から五稜郭まで150~200メートル間隔で路面電車並みである。終点の南
本郷まで19か所。
=遺構=
昭和20年以降も電柱が撤去されず建っていた。大野新道に平行して残っていたコンクリートの水田用水橋
台は、数か所あったがほとんど工業団地造成で埋められてしまった。
また大野橋から大野川沿いに線路の敷設を予定していたため、当時は電車道ともいわれていた。現在は桜
並木の道路となっている。本町中心街から大野停留所予定地(現在は児童公園)へ通ずる道路工事を見たと
証言する人がいる。