=乗合自動車・バス事業=

 

 駅逓とは宿場から宿場へ、人や荷物を次々に送る役目を持つところで、昔からあり、近世の江戸時代

になってから進歩発達し、駅逓の任務は宿泊・輸送・通信を取り扱う所となった。駅逓は宿駅と称され

ることもある。

 寛政11年(1799年)、幕府は蝦夷地を直轄することになり、何よりも先に採用したのは宿駅の制度

であった。南部から馬を移入して各場所に配置した。時代は移り明治に入って開拓使は宿駅制度を重く

採り上げ「駅逓制度」を整備した。

 

 

大正末期での乗合自動車

     大正末期の乗合自動車

 

上磯地区での流れ

大正8

1919

514

「函館毎日新聞」に「上磯沿岸に乗合自動車株式会社設立されん」という記事が出ている。(注1

517

この日の「函館毎日新聞」には、上磯側の経営者として堀口鐡蔵と山岡富三郎が出席して、前述の2人と共同会見を行っている。

625

上磯町内で長岡喜作、福士銀三郎ら委任者含む18人の出席で発起人会を開催。

7

往復4便で運転開始。

昭和8

1933

11

小熊信一郎が社長になり、函館~上磯間に定期バスが運転されることになった。(注2

昭和9

1934

9

「臨港バス運輸成績」によると、かろうじて経費を償うにとどまっている状況で、この23年は苦しい状況に置かれるだろうと推測している。

昭和13

1938

1

臨港バスはそれまで市の端から上磯までを結んでいたものを、函館駅前からと路線が延長された。

昭和27

1952

5

運輸審議会は、函館市のバス路線4線新設の却下を運輸大臣に申請した。(注3

9

函館バスが函館~松前間、函館~涌元(知内)間の直通バスを誕生させた。これに伴って上磯を通過する便も一部変更された。

12

乗客不足からか松前と涌元線のバスが運休。上磯線と七重浜線が増便となる。

 

 

(注1

   上磯木古内間に乗合自動車事業を開始せんとて、今回當區山田賢治、外山茂の兩氏發起し、上磯方面有力者の

  後援を得て、近く株式會社の設立の発表をみるべし。

 これによると、函館の人物が中心となり事業を始めようとしていたことがわかる。

(注2

 水電の終点からセメント工場前までを25分程度で結び、10人または20人乗りバスを5台使い、間隔を置かず運転して便利さを

売り物にして、上磯やその路線沿いの住人、サラリーマン層の利用をあてこんで昭和93月ぐらいの開業を目指していた。

(注3

 この中には函館~上磯間もあり、すでに4線とも函館乗合自動車が営業しているため、現在の輸送力で十分であり、市の許可を

与えることは不当競争を生み出すおそれありとした。この当時は民間経営のバスだけでなく、市営バスも市街路線に進出を目指し

たが、その目的を果たせなかったことが見てとれる。

 

 

昭和3年頃のバス   昭和13年のバス

      昭和3年頃のバス                     昭和13年のバス

 

大野地区での流れ

明治20

1887

江差に松沢伊八と畑中半右衛門が郵便馬車会社を設立。78人乗りの乗合馬車が函館・江差間を10数時間要し、運賃150銭。

明治30

1897

この頃、乗合馬車組合が設立され、郵便馬車会社の事業を引き継いだ。

明治35

1902

大野に本郷駅が開設されると、江差本郷間乗合馬車組合として、本郷駅~中山峠~鶉~江差間で営業を続行した。大野・函館間は湯の川の藤野客馬車が続けていた。(注1

大正7

1918

旭自動車株式会社が函館区、湯の川村など運行。

大正9

1920

江差自動車合資会社設立。江差町に本店を置き、出張所を本郷駅前に置いた。

大正12

1923

江差と大野の馬車組合が合併し、大野乗合自動車合資会社を設立。本郷駅・江差間を自動車4台で料金450銭、12往復。

大正13

1924

檜山乗合自動車会社設立。路線は江差・大野間のほか、江差・関内間、江差・上ノ国間、江差・館間の3路線を拡張。大野と檜山の両会社は社員が同一であり、姉妹会社。

大正14

1925

渡島交運合資会社設立。大野・檜山自動車と同じ路線で対立激化。

昭和2

1927

江差の有力者が仲介し、2年間の対立競争に終止符が打たれた。

昭和11

1936

姉妹会社の大野乗合自動車合資会社と檜山乗合自動車合資会社が合同し、大檜乗合自動車合資会社設立。

昭和13

1938

旭自動車株式会社が大沼線(函館・大沼公園)を増やす。

昭和15

1940

旭自動車株式会社が道南自動車株式会社へ両路線とも経営を委譲。

昭和19

1944

道南14社が統合し、函館自動車乗合自動車株式会社設立(のちに函館バス株式会社と改称)。発足当時の所有車両54台、従業員114人。(注2

昭和29

1954

村議会は、函館・大野間のバス路線複数化を要望する意見書を関係機関へ提出。

昭和30

1955

函館バス労働組合は7月から8月にかけ長期ストライキを行い全路線がストップする。

12月、函館市営バスが午前1回午後2回大野線を運行。廃止は昭和3334年頃。

昭和35

1960

千代田線(函館・千代田)開通。

文月線(函館・清川・大野)開通。

昭和37

1962

千代田線(千代田・南大野経由・大野)延長。

昭和44

1969

千代田線廃止。

昭和50

1975

千代田線(千代田・清水川経由・大野)再開通。

平成元年

1989

七飯・大野循環線(函館・七飯・大野)開通。

平成5

1993

大野・杉並線(昭和・杉並・大野)開通。

平成15

2003

千代田、文月線廃止。

 

 

(注1

 明治351210日、函館(後の亀田)~本郷(現渡島大野)間開通と同時に、本郷駅開業。本来、本郷に駅を設置する予定

だったが、本郷村住民の大反対に遭い、市渡に決まった。

(注2

 昭和19年、戦時体制に即応するため、当局の指導に基づき、函館乗合自動車株式会社設立発起人総代に渡島交運合資会社の稲川

広光が就いて、道南14社統合の運びとなった。誕生した函館自動車乗合自動車株式会社の社長も稲川であり、昭和34年まで勤めた。

 統合して函館バス株式会社を創設した14事業社

道南自動車株式会社、臨港バス株式会社、大沼電鉄株式会社、渡島海岸鉄道株式会社、渡島交運合資会社、大桧乗合自動車合資会社、

熊石自動車合名会社、八雲熊石自動車合資会社、下海岸自動車株式会社、マツマヘ自動車株式会社、旭自動車株式会社、藤野自動車、

水上自動車、藤谷自動車

 

 

昭和24年当時のトレーラーバス

昭和24年当時のトレーラーバス。

戦後、函館から大野まではトレーラーバスで大量の客を運んだ。

 

 


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